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ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿 : ウィキペディア日本語版 | ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿[―しんでん]
ユピテル・オプティムス・マクシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿(―しんでん、羅語:Aedes Iovis Jupiter Optimus Maximus ,Juno ,Minerva)は、カピトリヌス丘陵(現カピトリーノ)にあった古代ローマの神殿。現在は基礎部分が一部のみ残っている。 至高神ユピテル、ユーノー、そしてミネルウァを奉り、共和制ローマ、およびローマ帝国において、国家第一の格式を誇る神殿として尊重された。ローマでは、この神殿の奉献年を以て、執政官名によって年を表す年代表が導入されたと信じられた。 ==歴史==
ユピテル神殿の創建については、その多くが後の時代のローマの伝統によって脚色され、確かなことは分からない。発掘された陶片などから、この神殿が建設されるよりも前から、カピトリヌスには小規模な神殿が存在していたことが分かっている。ティトゥス・リウィウスによれば、カピトリヌスの丘に神殿を建設する計画は、ルキウス・タルクィニウス・プリスクスの時代に構想され、サビニ人との戦争の後に基礎工事が行われた〔リーウィウス『ローマ建国史(上)』p101-p102。〕。しかし、本格的な工事は、ルキウス・タルクィニウス・スペルブスによって行われ、ユピテル神の座所とするために、当時すでに存在していた小祠は、鳥占いによってテルミヌス神〔境界の神。この神がその場所から動くことを拒否したことは吉兆とされ、祠は神殿内に組み込まれた。〕のもの以外は撤去された。神殿の建築にはエトルリア各地から職人が呼び寄せられ、テラコッタ装飾はウェイイの彫刻家ウゥルカによって作成されたとされる。周囲から発掘された陶片により、紀元前6世紀末から、芸術活動はウェイイに極めて強い影響を受けるようになったことが知られており〔イシュタード『ローマ都市の建築』p101-p102。〕、ウェイイの職人がこの神殿の建築において重要な役割を担ったことは、考古学的にも裏付けられる。神殿の建築は、市民もその労役に服したため、彼の治世に神殿はそのほとんどが完成することになったが〔リーウィウス『ローマ建国史(上)』p136-p138。〕、スペルブスの追放後、神殿は執政官マルクス・ホラティウス・プルウィッルスによって奉献された。ローマでは、その日付は紀元前509年(あるいは紀元前507年)9月13日と信じられている。 共和制末期の紀元前83年7月6日、神殿は民衆派と閥族派の抗争の最中に全焼した。争乱の後に独裁官としてローマの実権を握ったルキウス・コルネリウス・スッラは、直ちに神殿の再建を指示し、その際、工事が停止していたアテナイのオリンピエイオンから輸送された石材を、神殿の柱として使用したことが知られている〔F.Sear『Roman Architecture』p12。〕。しかし、この神殿もウェスパシアヌスの武装蜂起に際し(69年)、ウィテリウス帝によって、ウェスパシアヌスの兄であるフラウィウス・サビヌスとともに焼き払われた〔スエトニウス『ローマ皇帝伝』p259。〕。ウェスパシアヌスは皇位に就くと神殿の再建を指示したが、これも80年の市街火災によって再び炎上した〔スエトニウス『ローマ皇帝伝』p278。〕。その後、ドミティアヌス帝によって神殿は再度構築され、その後400年間以上、完全な状態で保持され続けたと考えられる。しかし、5世紀以降の神殿の記録はなく、ガイセリックの侵略時、あるいはゴート戦争時に神殿は焼失し、そのまま放棄されたようである。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿」の詳細全文を読む
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