翻訳と辞書 |
ユーリー・ダヴィドヴィチ : ウィキペディア日本語版 | ユーリー・ダヴィドヴィチ ユーリー・ダヴィドヴィチ(、? - 1237年)はムーロム公ダヴィド(ru)の子である。ムーロム公:1228年 - 1237年。 == 生涯 == 1228年、兄と父が相次いで死亡したためムーロム公位を継いだ。1229年、1232年にはウラジーミル大公国のユーリー2世のモルドヴァ族に対する遠征に参加した。1237年、モンゴル帝国軍がリャザン公国の南の国境地帯に現れたため、ムーロム、リャザンの公たちはヴォロネジ川へと軍を進めた〔〕。ユーリーは同年に、モンゴル帝国軍との戦いで戦死した〔Татищев В. Н. Собрание сочинений в восьми томах: Т.2, 3. История Российская. Часть 2: Репринт с изд. 1963, 1964 гг. — М.: Ладомир, 1994. С.332〕。なお、これらの一連の戦いをもとに書かれた『バツのリャザン襲撃の物語』では、当時のムーロム公を「リャザン公の兄弟のダヴィド・イングヴァリヴィチ」と誤って記している〔〕〔中村喜和『ロシア中世物語集』p227〕。 妻の名は不明である。子にはムーロム公ヤロスラフがいる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユーリー・ダヴィドヴィチ」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|