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ヨハン・カスパール・ケルル : ウィキペディア日本語版
ヨハン・カスパール・ケルル

ヨハン・カスパール・ケルルJohann Caspar Kerll, 1627年4月9日 - 1693年2月13日)はドイツ盛期バロック音楽作曲家オルガニスト。生前は最も評価の高い音楽家の一人であり、才能のある作曲家としても傑出した教師としても著名であったにもかかわらず、現在ではほとんど忘れ去られており、めったに演奏されない。


== 生涯 ==
ザクセン公国アドルフ出身。青少年期については少しのことしか分かっていない。父カスパール・ケルルは、オルガン建造家ならびに地元のミヒャエル教会のオルガニストで、1626年にカタリーナ・ヘンデルと結婚した。おそらくケルルに音楽の手引きをしたのは父親であった。比類ない楽才を発揮してから、ウィーン宮廷楽長ジョヴァンニ・ヴァレンティーニに音楽を師事する機会が得られた。同地で宮廷オルガニストとして働きながら数年間の研修を経た後、ローマに移り、ジャコモ・カリッシミに入門した。ローマ滞在中の1648年から1649年ごろに、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーに師事した見込みが高いが、これを裏付ける確かな資料は発見されていない。
だいたい1646年から1647年ごろに、スペイン領ネーデルラントの総督レオポルト・ヴィルヘルム大公によって、ブリュッセルの居城における室内楽団のオルガニストに任命された。ケルルはいくつかの理由から、ブリュッセルをたびたび留守にしたが、失職せずに済んでいる。1648年にはカリッシミのもとで学んでおり、1649年から1650年までの冬は、フローベルガーとともにドレスデンを訪れ、フェリペ4世とオーストリア皇女マリア・アンナの婚礼にも参列した。1651年にレオポルト・ヴィルヘルム大公にウィーンで復職するよう催促されたが、だが1652年になってウィーン入りし、しばらくゲットヴァイク(Göttweig)に過ごしてモラヴィアを訪れた。
1656年にブリュッセルの宮廷が解散されると、同年2月に、バイエルン選帝侯フェルディナント・マリアのもとでミュンヘン宮廷の副楽長職を受理。9月に宮廷楽長に昇進した。この新しい任務は、典礼用の宗教曲のほか、宮廷のための室内楽曲オペラの作曲も含まれていた。ミュンヘン滞在中の1657年に、アンナ・カタリナ・エガーマイヤーと結婚。8人の子供をもうけたが、音楽家の道に進んだのは一人だけだった。理由ははっきりしないが、1673年に退職する。他の宮廷楽師といさかいを起こしたとか、宮廷内で悪行を働いたなど、様々な噂が残されているが、しかしながら実際のケルルは、没するまでの間、選帝侯フェルディナント・マリアと連絡を取り合っていた。
ケルルは1674年にウィーンに移り、1675年に宮廷オルガニストに任命された。ヨハン・パッヘルベルを助手として聖シュテファン大聖堂で活動した可能性がある。1679年にアンナ夫人が疫病のために他界すると、1682年(もしくは1683年)にクニグンデ・ヒラリスと再婚した。それから10年間にわたってウィーンにとどまり、1684年から1692年まで度々ミュンヘンを訪れた。1692年の末に辞職し、ウィーンを去ってミュンヘンに戻るが、その後まもなくして亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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