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ヨーゼフ・シュトラウス(Josef Strauss,1827年8月20日 - 1870年7月22日)は、オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家・指揮者である。ヨハン・シュトラウス1世の次男で、「ワルツ王」と呼ばれるヨハン・シュトラウス2世の弟にあたる。弟にエドゥアルト・シュトラウスが、甥にヨハン・シュトラウス3世がいる(シュトラウス家参照)。 一般的には兄の栄光に隠れがちな存在だが、音楽的能力は優るとも劣らず〔志鳥(1996) p.267〕、1853年に音楽家となってから1870年に没するまでの約17年間で280曲以上の作品を残している。また、500曲以上の編曲も手がけたとされる〔若宮(2014) p.76〕。「兄よりも才能がある」などと評されることもあり〔井上(1985) p.239〕、実際に兄ヨハンも「私はただ人気があるだけだ。シュトラウス・ファミリーの中でヨーゼフがもっとも才能に溢れている。」と語っていた〔『ニューイヤー・コンサート2002 完全収録盤』解説書〈水彩画〉より〕。比較的長寿であったヨハン2世やエドゥアルトと異なり、42歳11ヶ月の若さで世を去った。 『ディナミーデン』がリヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』のオックス・ワルツとして用いられたり、『天体の音楽』と『わが人生は愛と喜び』がそれぞれドイツ映画『会議は踊る』のテーマ音楽と主題歌のメロディとして用いられたりと、後世への影響も大きい。 == 生涯 == === 幼少期 === 1827年8月20日、音楽家ヨハン・シュトラウス1世と居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイムのあいだに次男として誕生する。陽気で明朗な兄ヨハン・シュトラウス2世とは違って、憂鬱で暗い性格の持ち主で〔 『名曲解説全集 第三巻 管弦楽曲(上)』(1959) p.347〕、そして神経質で病弱だった〔吉崎(1978) p.186〕。 父は息子たちを音楽家にさせたくなかったが、ウィーン市民が教養として日常的に弾いていたピアノの練習は許していた〔加藤(2003) p.75〕。そこでヨーゼフは兄とともに母によって音楽のレッスンを受けさせられた〔 若宮(2012) p.54〕。その結果、ふたりはABCよりも早く二分音符を五線譜に書き付け、その意味を理解できるようになったという。 また、自宅には父の仕事部屋があり、そこからはリハーサルの音が漏れていた。ヨーゼフは兄ヨハンとともにそれを注意深く聴きとって、ピアノで連弾して楽しんでいたという〔。これは兄弟にとって非常に良いレッスンとなり、その腕前は知人たちの間で評判になっていた。父は息子たちのピアノに全く関心がなかったが、あるとき楽譜出版業者のハスリンガーからこのことを伝えられて驚いた〔。そして部屋に呼び入れられたヨハンとヨーゼフは、父の前でいつものように連弾した。父は満足げに「お前たち、誰にもひけをとらないぞ」と語り、ふたりはそれぞれフード付きの上等なマントを褒美に与えられたという逸話もある〔。このように兄との遊びは音楽的なものが多く、少年時代には兄の自作の曲を歌わされたこともあったようである〔ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2014曲目解説 〈ことこと回れ〉より〕。 父の希望に従って、兄ヨハンと同様にウィーンの名門高校に通った〔加藤(2003) p.111〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨーゼフ・シュトラウス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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