翻訳と辞書
Words near each other
・ ヨーゼフ・フランツ・フォン・ジャカン
・ ヨーゼフ・フランツ・ワーグナー
・ ヨーゼフ・フンメル
・ ヨーゼフ・ブラドル
・ ヨーゼフ・ブロイアー
・ ヨーゼフ・プリラー
・ ヨーゼフ・ヘルフリッヒ
・ ヨーゼフ・ヘルメスベルガー
・ ヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世
・ ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世
ヨーゼフ・ベルヒトルト
・ ヨーゼフ・ベーア
・ ヨーゼフ・ホフマン
・ ヨーゼフ・ボイス
・ ヨーゼフ・マイジンガー
・ ヨーゼフ・マッファイ
・ ヨーゼフ・マティアス・ハウアー
・ ヨーゼフ・マルクス
・ ヨーゼフ・マルティン・クラウス
・ ヨーゼフ・ミスリヴェチェク


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ヨーゼフ・ベルヒトルト : ウィキペディア日本語版
ヨーゼフ・ベルヒトルト

ヨーゼフ・ベルヒトルトJoseph Berchtold1897年3月6日 - 1962年8月23日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)の第2代親衛隊上級指導者、初代親衛隊全国指導者
== 略歴 ==
バイエルン王国インゴルシュタット出身。ミュンヘンの小学校とギムナジウムを出た後、第一次世界大戦中の1915年春にバイエルン王国陸軍に入隊。西部戦線へ出征した。1918年に戦争が終わった直後に予備役少尉に昇進した。また戦争中に二級鉄十字勲章とを受章している。
1920年2月に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)へ入党(党員番号750)。はじめフランツ・クサーヴァー・シュヴァルツとともにナチ党の会計責任者をしていたが、1921年7月29日に一時ナチ党を離れた。1922年3月7日に党に戻り、突撃隊(SA)に入隊した。ミュンヘンの突撃隊の様々な「100人部隊」の指揮官となる。また1923年にはミュンヘンでタバコと文房具の販売店の経営を行った。
1923年8月には党首ヒトラーの警護を任務とするの指揮官に任命された。1923年11月のミュンヘン一揆の失敗でオーストリアへ亡命した。亡命中の1925年に再入党(新しい党員番号964)。1926年4月にドイツへ帰国。1926年4月15日にユリウス・シュレックの後任として親衛隊の最高指揮官である親衛隊上級指導者に就任。1926年11月1日に親衛隊上級指導者の職名は、突撃隊最高指導者フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンにより親衛隊全国指導者に変えられた。就任当初はシュレックよりラジカルであると期待されたが、思う様に手腕を発揮できないまま、翌1927年3月にはエアハルト・ハイデンに親衛隊全国指導者の地位を譲った。以降は突撃隊に戻り、親衛隊から完全に離れ、親衛隊の隊員ではなくなった。突撃隊の階級は、1931年に突撃隊大佐、1933年に突撃隊上級大佐、1934年に突撃隊少将、1937年に突撃隊中将1942年突撃隊大将と昇っている。
1927年1月から党の機関紙であるフェルキッシャー・ベオバハターの主筆になった。1934年にミュンヘン一揆参加者として血盟勲章が授与された(番号は9)。1936年から国会議員となり、1945年5月8日のドイツの敗戦に伴う国会の消滅までその地位は保持している。文化帝国評議会や突撃隊文化サークルのメンバーにもなっている。
1940年4月29日からは予備役大尉として陸軍に勤務していた。
1945年、で連合軍に逮捕され一時拘留された。1962年8月23日にで死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヨーゼフ・ベルヒトルト」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.