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ヨーゼフ・ランナー(Joseph Lanner, 1801年4月12日 - 1843年4月14日)はオーストリアの作曲家・ヴァイオリン奏者である。ウィーンのザンクト・ウルリヒ(Sankt Ulrich)出身。 冒頭に作品全体の気分を示す序奏を採り入れるたり〔 加藤(2003) p.49〕、新曲に『宮廷舞踏会』や『宵の明星』といった魅力的な曲名をつけるなどして(それまでの例を挙げると、師パーマーの代表作の曲名は『リンツ舞曲集』だった。)〔、シュトラウス一家に先立ってウィンナ・ワルツを確立させたため、「ワルツの始祖」とも呼ばれることがある。そして後にはヨハン・シュトラウス1世と対決しつつワルツを磨き上げていく。 彼の作品にはワルツ、ポルカ、ギャロップ、レントラーなど400曲以上の舞曲などがある。代表作に『シュタイアーマルク風舞曲』、『シェーンブルンの人々』、『ハンス・イェーゲル・ポルカ』、『マリア・ワルツ』などがある。特に『シュタイアーマルク風舞曲』と『シェーンブルンの人々』は、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽『ペトルーシュカ』にそのモチーフが採り入れられている〔 加藤(2003) p.50〕。ショパンやスメタナ、リヒャルト・シュトラウスなどの作品にも影響を与えた〔。 ちなみに彼はオペラを編曲して自分の楽団で演奏することが多く、『モーツァルト党』(モーツァルト派、モーツァルティアン、モーツァルティステンとも)はそのよき例であり、『魔笛』や『ドン・ジョヴァンニ』などのオペラの旋律を利用して作られたワルツである。 == 生涯 == === パーマー楽団に入団、そして独立 === 1801年4月12日、ウィーンの郊外の聖ウルリッヒ通り(現7区・メヒタリステン通り)で、手袋職人の長男として生まれた〔 渡辺(1989年2月) p.294〕〔 加藤(2003) p.47〕。通っていた工業技術学校を中退し、正規の音楽教育なしでヴァイオリンを自力でマスターする〔 加藤(2003) p.48〕。12歳の時にミヒャエル・パーマーに才能を見出されて彼の楽団に入団し、ヴァイオリン奏者になった〔 渡辺(1989年2月) p.298〕〔。それから6年後の1819年、3歳年下で当時15歳だったヨハン・シュトラウス1世がパーマーの楽団に入ってきた。恥ずかしがり屋の夢想家であるランナーに対して、シュトラウスは生き生きとした情熱家であった〔 渡辺(1989年2月) p.299〕。ふたりは正反対の性格であったがすぐに仲良くなり、共に下宿生活を始めた〔。ふたりは貧乏だった頃、ひとつのタキシードを共用して演奏会に行ったと伝えられる〔増田(1998) p.88〕。 パーマーは楽団員に払うべき給料を自身の飲食代に使ってしまうような人物であり、たまりかねたランナーは独立して三重奏団を設立した〔。また、パーマーのもとに留まったシュトラウスに移籍を呼びかけ、これに応じたシュトラウスとともに演奏活動に励んだ〔。それまでパーマーのワルツに頼っていたランナーとシュトラウスであるが、独立したとなると自分でワルツを作曲しなければならないため、ふたりは揃って音楽理論を学んだ〔。ランナーは信心深い人物であり、自身の楽譜の隅には必ず「神と共に!ヨーゼフ・ランナー」と署名したという〔。 人々はランナーを「愛すべき人」と呼び、彼の音楽について「足を躍らせ、しかも目には少し涙をにじませる」と言った〔。当時の音楽批評家エドゥアルト・ハンスリックは、ランナーの音楽を「スミレの香りのするメロディー」と褒め称えている〔。ランナーのワルツはたちまち広く認められ、次々と出版されるようになった〔 渡辺(1989年2月) p.295〕。エドゥアルト・ヤーコプ曰く、「ランナーによってワルツにもロマン時代が始まった」〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨーゼフ・ランナー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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