|
カール・ヨーゼフ・ヴィルト(Karl Joseph Wirth, 1879年9月6日 ‐ 1956年1月3日)は、ドイツの政治家。所属政党は中央党。ヴァイマル共和政時代の1921年から翌年にかけて首相を務めた。ドイツ史上最年少の首相。 == 経歴 == フライブルク生まれ。経済学と数学を学んだ後、1908年にギムナジウムの教授となる。1913年にバーデン州議会議員に選出。1914年にはドイツ帝国議会議員になった。第一次世界大戦後の1918年、バーデン州財務相に就任。1920年3月、ミュラー内閣でマティアス・エルツベルガーの後任として中央政府に財務相として入閣。さらに1921年5月、連立が瓦解したフェーレンバッハ内閣の後任として、中央党、ドイツ社会民主党、ドイツ民主党の連立からなる少数与党政権を組閣した。首相就任時のヴィルトの41歳という年齢は現在に至るまでドイツ史上最年少である。 前内閣とは反対に、連合国がドイツに課した過重な賠償を軽減するため、むしろその義務を愚直に遂行して賠償額がドイツの支払い能力を超えているとアピールする政策をとった。しかしこの「履行政策」はヴェルサイユ条約見直しを主張する右翼民族主義者の攻撃の的となった。一方で軍の統帥部長官ハンス・フォン・ゼークトと親しくしており、その支持により建国間もないソビエト連邦とラパッロ条約を締結した。国際的に孤立するソ連との経済関係を樹立するとともに、ソ連からの賠償要求を相殺させることに成功した。しかしこの条約は連合国との関係悪化を招いた。国内ではこの条約はおおむね歓迎されたものの、極右はボルシェヴィキとの接近を嫌い、条約交渉にあたったヴァルター・ラーテナウ外相がベルリンの路上で暗殺された。その追悼演説で述べた「敵は右側に居る!」という彼の言葉は語り草になった。この際に左右の過激派を取り締まる共和国防衛法を制定している。その後賠償金支払い・共和国防衛法に関する紛糾がヴィルトと財務相との対立となり、1922年11月に退陣した。 1929年‐1930年にミュラー内閣で占領地(ラインラント)担当相を、1930年‐31年にブリューニング内閣で内相を務めた。彼は「憲法48条大臣」として左右のテロに厳しい対処をとった。しかし政治姿勢が左寄り過ぎるとしてヒンデンブルク大統領の個人的不興を買い、内閣が圧力を受け辞職に追い込まれた。ナチ党の権力掌握が進む中、全権委任法成立間もない1933年3月23日にウィーンに赴き、そのまま亡命した。ナチス・ドイツ時代を通じてスイスのチューリヒで亡命生活を送った。スイス滞在中、彼はナチス政府から強い批判を受けたが、ひたすら沈黙を守った。一方で国内の反ナチ運動や、イギリス政府、アメリカ合衆国のOffice of Strategic Servicesと連絡を取った。 第二次世界大戦後に西ドイツの故郷フライブルクに戻り、西側諸国との同盟を拒絶し厳密な中立主義を標榜する「統一・平和・自由のためのドイツ人連盟」を組織し「ドイツ人民新聞」を創刊するが、これは東ドイツのドイツ社会主義統一党に近い立場だった。一方で彼の行動はソビエト連邦に抑留されていたドイツ人捕虜の解放に成功している。東ドイツ政府から少額ながら金銭援助を受け、1954年には平和金メダルを授与されている。またソビエト連邦からは1955年にはスターリン平和賞を受賞している。CIA文書では彼はソビエト連邦のエージェントとして扱われている。西ドイツ政府も、東ドイツとの関係を理由に年金支給を停止した。1956年、ヴィルトはフライブルクで病死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨーゼフ・ヴィルト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|