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『ヨーロッパ退屈日記』(ヨーロッパたいくつにっき)は、日本の俳優、商業デザイナーの伊丹十三が1965年(昭和40年)に発表したエッセイ集の名称である。 ==作品誕生の経緯== 『ヨーロッパ退屈日記』誕生のきっかけは、伊丹が作家の山口瞳とはじめて出会った1954年(昭和29年)に始まる。当時伊丹は商業デザイナーとして河出書房に勤めていたが、同社が発行していた雑誌『知性』の編集人であった山口と偶然親交を結ぶことになった。この交友関係は『知性』が廃刊になるまで続く。 やがて伊丹は俳優の勉強をすべく出版社を退社、新進俳優として1960年(昭和35年)に大映に入社したが、翌年にはフリーになり渡欧し、映画『北京の55日』に出演。1962年(昭和37年)に帰国した伊丹は文藝春秋新社から原稿依頼を受け、ヨーロッパ滞在時の逸話を基にした短文を書いたが不採用となった。理由はこの短文が映画、ファッション、スポーツカー、語学など多岐にわたるテーマについて、話し言葉を多用した一見気障に思われるような独特の文体で書かれたものであるため、当時の高踏的な文芸誌にふさわしくないものと判断されたと推察される。 文藝春秋新社は、伊丹の原稿を不採用にしたものの、原稿を壽屋のPR誌『洋酒天国』に応募するよう勧める。当時、壽屋には河出書房を退社していた山口が勤めており、ここで伊丹は約7年振りに山口と再会した。伊丹の応募原稿は無事に採用されることになり、山口によって『ヨーロッパ退屈日記』と名付けられ、『洋酒天国』第56号(1963年1月発行)に、俳優時代の芸名である「伊丹一三」名義で発表された。この記事は好評で、月刊誌『婦人画報』から続編の原稿依頼を受け、同じタイトルで同誌の1963年6月号から1965年5月号まで連載を続け、既発表分に数篇の書き下し記事を加え、単行本として『ヨーロッパ退屈日記』のタイトルで出版された。 これは、伊丹十三の文筆家としてのデビュー作であると同時に、今日、文学ジャンルとして「随筆」とはやや異なるニュアンスで用いられるようになった、本格的な「エッセイ」が、戦後の日本に誕生した瞬間でもあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨーロッパ退屈日記」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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