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ロビンズ男爵ライオネル・チャールズ・ロビンズ(Lionel Charles Robbins, Baron Robbins, 1898年11月22日 - 1984年5月15日)はイギリスの経済学者。 1930年代にはロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の経済学部長としてイギリスにローザンヌ学派、オーストリア学派などの流れを汲む大陸ヨーロッパの経済学の伝統を定着させ、LSEをケンブリッジ大学に対抗する経済学の拠点として発展させた。 経済学の方法論に関して書かれた1932年の論考『経済学の本質と意義』(''Essay on the Nature and Significance of Economic Science'')は非常に有名。またジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』の発表後にはケインズとの間に論争を展開した。 第2次世界大戦中から戦後にかけてはイギリス政府に請われ、政府関連のいくつかの役職に就いている。1959年には一代貴族に叙せられた。 == 経歴と影響 == ===学歴=== *1920年、LSEに入学した。当初はハロルド・ラスキの下で政治学を学んでいたが、後に経済学に専攻を変え、エドウィン・キャナンとヒュー・ダルトンに師事する。 *彼は、早い時期からウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズとフィリップ・ウィックスティードを支持していた。また、レオン・ワルラス、ヴィルフレード・パレート、オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク、フリードリヒ・ハイエク、クヌート・ヴィクセルといった大陸ヨーロッパの経済学者の著作から学び、影響を受けた。 *そのため、ロビンズは、同時代のイギリスの経済学者の中では、異色の存在と考えられている。なぜなら、当時イギリス及び英語圏の経済学界で圧倒的な影響力を誇っていたのは、アルフレッド・マーシャルと彼の門下の経済学者たち(いわゆるマーシャル派)であり、彼らの展開する理論は、大陸の経済学者たちのそれとは一線を画していたからである。つまり、大陸の経済学者たちが数学による定式化と一般均衡理論の発展を促進したのに対して、マーシャルらは数学的手法を重視せず一般均衡ではなく部分均衡を用いて議論を展開していた。こうした状況下で、ロビンズは、明らかに大陸の伝統に親近感を抱いており、この時代のイギリス人経済学者としては珍しくマーシャルの影響を受けなかったのである。また、その背景ゆえに、彼はその後マーシャルの流れを汲む経済学者との論争にコミットしていくことになったとも言える。 *1923年にLSEを卒業した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ライオネル・ロビンズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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