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ライカ・コンタックス論争(ライカ・コンタックスろんそう)または火の粉論争〔『クラシックカメラ博物館』p.149。〕とは、1935年から1936年頃をピークとして〔『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.118。〕、日本のカメラユーザーの間で「ライカとコンタックスのどちらが優秀か」について〔巻き起こった論争である。それぞれの製造者であるカール・ツァイスの日本法人や、エルンスト・ライツ(現ライカ)代理店のシュミット商会を巻き込んで行なわれた。 コンタックス党であった佐和九郎は、カール・ツァイスの日本法人であったカール・ツァイス株式会社が1935年に発行した『コンタックス綜合型録兼使用書』などを担当した中で、ライカの名こそ出さないが明らかにライカの機構上の欠点を書き並べ、コンタックスの優位性を強調した。ライカの側でも同じことをしており、だんだんそれがエスカレートする結果となった〔『クラシックカメラ専科No.2、名機105の使い方』p.12。〕。 また佐和九郎はK.K.Kのペンネームでアサヒカメラ1935年5月号〔『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.131。〕または8月号〔〔に記事『ライカとコンタックスとどちらがよいか?』を書いている。この記事は当時の最新型ライカとコンタックスを12項目100点満点で採点し比較しており、両方のカメラを使ってきた中立的な立場で書いたとはしているが、評価は とかなりコンタックスよりであった〔。 これに対抗してライカ側は当時日本代理店であったシュミット商会の井上鍾が小冊子『降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ』を発行した。 論争は泥仕合化し、ついにはドイツ本国政府に話が持ち込まれ、自粛が要請されるまでになったが、その後も長きにわたって話題とされた。第二次世界大戦の激化に伴いカメラどころではなく下火になったものの戦後も続き、例えば佐和九郎はライカM3登場直前の1954年に自ら著しアルス社から発行した『佐和写真技術講座2 カメラとレンズ』の中で「ライカは商売がうまいこと、宣伝に費用を惜しまず、手段を選ばず、徹底的にやるということは、カメラの歴史の中でライカに及ぶものがない」「(ライカIIIfの将来について)思い切った改造をすれば、コンタックスに似たものとなる。ライカは苦しい立場と同情する」と書いている〔『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.26。〕。1961年にコンタックスが生産中止となって終息した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ライカ・コンタックス論争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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