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ライヒェナウ島 (Insel Reichenau)は、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州のコンスタンツ湖に浮かぶ島。コンスタンツ市のほぼ西側にある。島は人工の道で本土とつながっている。2000年にユネスコの世界遺産に登録された。島にはライヒェナウ修道院が建つ。修道院内の聖堂は、聖母マリアと聖マルコに捧げられたものである。他に、聖ゲオルクと聖ペトロ、聖パウロに献堂された教会が2つある。ライヒェナウの有名な芸術作品には、10世紀から残るオットー朝ルネサンス期(ザクセン王朝の神聖ローマ帝国時代の様式)の『キリストの奇跡』の壁画が含まれる。 修道院の代官所は2階建ての石造りの建物で、2階より上の階は14世紀に半木造建築からなっている。これは南ドイツにおける半木造建築で古い物の一つである。 修道院周囲に広大に広がる土地を所有しているのは、修道院にちなんで名付けられた村、ライヒェナウである。 現在、島は野菜とワイン生産で有名である。島の近隣には大きな湿地帯''Wollmatinger Ried''が広がり、渡り鳥の休息地となっている。 == 歴史 == 島の名前はアレマン語で''Sindleozesauua''と呼ばれたが、短縮して''Ow''、''Auua''呼ばれていた(ラテン語を変換した''Augia''からきたもので、のちに''Richenow''が転じてライヒェナウとなった)。 ベネディクト会派のライヒェナウ修道院は、ムーア人侵攻でスペインを逃れ、諸国を放浪していた聖ピルミニウスによって建立された。彼はカール・マルテルやアハロフィンガー伯、シュヴァーベン公などの庇護を受けていた。ピルミニウスは地元の諸侯と対立して院長の地位を727年に辞した。彼の後を継いだハットはホーエンツォレルン伯の縁者で、修道院はそのために潤沢な資金が注がれて華やかな地位を獲得した。帝国や諸侯の尚書を務めたヴァルドー(740年-814年)の元でカロリング朝の多大な影響を受けた。院長ヴァラーフリート(任:842年-849年)は、詩人・ラテン語学者として知られた。 修道院は、湖上を渡る困難なルートである、ドイツ=イタリア間の南北に伸びる幹線道路沿いにあった。ライヒェナウ修道院内には神学校、写字室、工房が建てられた。神聖ローマ帝国に属するスイスのこの場所は、10世紀後半から11世紀後半にかけて、色模様・飾り文字で飾られたきらびやかな写本を生み出す芸術的影響を持つ場所となった。神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世のために作成された『ハインリヒ2世の写本』が写字室の作品として知られ、現在はミュンヘンにある。 修道院は院長ベルノ(1008年-1048年)の代に絶頂期を迎えた。この時代、重要な学者ヘルマヌス・コントラクトゥスがライヒェナウに住んで活動していた。11世紀半ば、ローマ教皇グレゴリウス7世の限定的改革、近くにある競争相手ザンクト・ガレン修道院の台頭があり、修道院の重要性は次第に失われていった。1540年、ライヒェナウ修道院長の古くからの競争相手であるコンスタンツ司教がライヒェナウ卿となり、司教がこの地位を引き継いでいくにつれ、修道院の壮麗さは輝きを失っていった。 修道院の土地は世俗化され(1757年に始まり1803年に完了)、侵攻したナポレオンによって聖職者たちは放逐された。ライヒェナウの栄光の一部である書庫は、カールスルーエで国立図書館''Landesbibliothek''として保存された。『バイエルン地誌』(:en:Geographus Bavarus)やその他多くの重要な記録はミュンヘンのバイエルン州立図書館で見つかった。2001年から、ベネディクト会派の信仰共同体は、ニーダーツェルで再建された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ライヒェナウ島」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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