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ライヒェンバッハの戦い(独:Schlacht bei Reichenbach)は七年戦争中の1762年8月16日、プロイセン王国とオーストリア大公国(ハプスブルク君主国)の間で生起した戦闘である。 ==背景== プロイセン軍はブルケルスドルフの戦いの後、ダウン指揮下のオーストリア軍がオイレン高地に撤退するとシュヴァイトニッツの要塞を包囲した。 8月の初め、フリードリヒ大王の許へ、ダウンが糧秣の主要な集積地をブラウナウ(Braunau)からハーベルシュヴェアト(Habelschwerdt)へ移した旨、報告が入る。大王はオーストリア軍が、シュヴァイトニッツ要塞の解囲を目指しているものと見た。 この推定は、ベック大将率いるオーストリア軍が上シレジアを発し、ダウン指揮下の主力軍に合流したことで裏付けられた。それを受けて、フリードリヒ大王はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公アウグスト・ヴィルヘルムの部隊を呼び寄せる。 8月13日、プロイセン軍はライヒェンバッハ南西のパイラウ(Peilau)で合流を果たした。 フリードリヒ大王は、ヴァータ(Wartha)からズィルバーベルクの間に集結するオーストリア軍からの攻撃を退けるべく、準備を開始し、軍団を二分した。ベーヴェルン公に従う14個大隊および砲兵が左翼をフィッシャーベルク(Fischerberg)に置きつつ、パイラウの中心から下流にかけて東進する一方、メーレンドルフ少将は10個大隊および砲兵を率いて右翼を 丘陵地帯に置きつつ、ペータースヴァルダウ(Peterswaldau)に展開した。大王は後者の部隊と行動をともにする。 これらの二つの部隊の配置は、一本の折れ線を描いていた。そして、その角はライヒェンバッハにあった。またこの中間地点を補強し、相互の連絡を確保するためにヴェルナー中将指揮下の30個騎兵中隊が前哨部隊をヘアラインベルク、フートベルク(Hutberg)、そしてライヒェンバッハ東方のヘアレンフォアヴェルク(Herrenvorwerk)に置きつつ、ペータースヴァルダウの南方に配置された。ツィーテン大将指揮下の騎兵43個中隊は、 後方のパイスカースドルフ(Peiskersdorf)で丘陵地帯の出口を固めた。 フリードリヒ大王は命令を発し、先に攻撃を受けた部隊は、他の部隊の来援を得るまで防御に徹するようにさせた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ライヒェンバッハの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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