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ライフガーズ()はイギリスの近衛騎兵連隊であり、イギリス陸軍に於ける連隊序列第一位の連隊である。日本語では”ライフガーズ連隊”、”ライフガード連隊”、”ライフ近衛連隊”等の表記も見られる。また、ライフガードと混同されて”救難隊”と誤訳される例も見られた。 一般の連隊のように各旅団に戦闘部隊(大隊や中隊)を派遣し、衛兵任務の人員を配置するための組織としては、ブルーズ・アンド・ロイヤルズ(The Blues and Royals)と共に王室騎兵隊 (Household Cavalry:HHC)が編成されている。ブルーズ・アンド・ロイヤルズ連隊が清教徒革命期に議会派だった部隊の流れを汲んでいるのに対し〔ブルーズ・アンド・ロイヤルズの基となった2つの騎兵連隊、ロイヤル・ホースガーズ(Royal Horse Guards/通称 Blues)と第1ロイヤル竜騎兵(1st The Royal Dragoons/通称 Royals)はいずれも議会派の残党を集めて編成された部隊である。〕、ライフガーズ連隊は王政復古時に王党派だった騎兵中隊が基になっている。 == 沿革 == 1651年、チャールズ皇太子(後のチャールズ2世)は、イングランド内戦に於ける最後の大きな戦闘となったウスターの戦い(en)に敗れて大陸へ亡命した。この時チャールズ皇太子に従っていたジェントルマン階級のロイヤリスト80名により、1652年に騎馬護衛隊(Royal Mounted Bodyguard)がオランダで編成された。当時はチャールズ皇太子個人のボディーガード(Life Guard)であり、戦闘時は歩兵として戦った。彼らは”ジェントルメン・オブ・ザ・ライフガーズ”(Gentlemen of the Life Guards)とも呼ばれていた。そして同じ頃、チャールズの弟で後にジェームズ2世となるヨーク公も騎馬護衛隊を編成していた。また、当時議会派だったジョージ・マンク〔コールドストリームガーズ連隊の創立者でもある。〕も自身の騎馬護衛隊(Monck's Life Guards)を持っていたが、マンク将軍は王政復古に際して王党派に転向したので、彼の騎馬護衛隊もそれに従った。 1660年5月、チャールズはこれらの3個騎馬隊に将校を任命し、3個の近衛騎兵(ホースガーズ Horse Guards)中隊としてロンドン入城に同行した。騎兵中隊は、チャールズ皇太子の護衛隊が第1中隊とされてキングス中隊(King's Troop)、マンク将軍の騎馬隊が第2中隊とされてクィーンズ中隊(Queen's Troop)、ヨーク公の護衛隊が第3中隊とされてデューク・オブ・ヨークス中隊(Duke of York's Troop)と呼ばれた。 1661年4月、第4中隊・スコッツ中隊(Scots troop)が設立された。 1678年、当時フランスの影響で歩兵連隊に擲弾兵中隊が設けられるようになっていたが、この擲弾兵に機動性を持たせようという発想から、第1乃至第3ホースガーズ中隊に騎馬擲弾兵(ホース・グレナディアガーズ Horse Grenadier Guards)が配属された。騎馬擲弾兵は擲弾とフリントロック式のマスケット銃”フュージル”(Fusil)及び銃剣を装備した乗馬歩兵であり、騎馬により移動し、戦闘の際は下馬して擲弾の投擲や射撃、銃剣による白兵戦を行なった。 1693年、各中隊の騎馬擲弾兵が集められ、ホース・グレナディアガーズ中隊が編成された。そして、1702年には第2中隊・スコッツ中隊(Scots troop)が編成された。 1746年、ホースガーズは2個中隊に再編された。 1788年、ホースガーズの2個中隊と第1及び第2ホース・グレナディアガーズ中隊は廃止され、ライフガーズ第1連隊(1st Regiments of Life Guards)及び同第2連隊(2nd Regiments of Life Guards)に再編された。 1922年、ライフガーズ第1連隊と第2連隊が統合され、ライフガーズとなった。 File:James, Duke of York - Romanesque.jpg|ヨーク公(後のジェームズ2世) Image:George_Monck_1st_Duke_of_Albemarle_Studio_of_Lely.jpg|ジョージ・マンク。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ライフガーズ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Life Guards (United Kingdom) 」があります。 スポンサード リンク
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