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ライマン・ウェスレイ・ボストック・ジュニア(Lyman Wesley Bostock, Jr., 1950年11月22日 - 1978年9月23日)は、アメリカ合衆国アラバマ州バーミングハム出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。 == 経歴 == ニグロリーグのスター一塁手として活躍していたライマン・ボストック・シニアの息子としてアラバマ州バーミングハムに生まれた。両親は出生前に別れ、母親と祖母に育てられた〔Bostock SABR〕。 4歳の時にポケットに7ドルだけを入れた母親に連れられてカリフォルニア州ロサンゼルスへ引っ越した。 ボストックは8歳の時に、母親に初めて買ってもらった野球のグラブを盗まれてしまい、新たに購入する余裕が母親には無かったので、家族の友人からプレゼントされた別のグラブを使用する必要があった。グラブは左利き用のものだったが、唯一のグラブだったので、左利きのそのグラブでボールをキャッチするのが習慣になったとのちに語っている。 カリフォルニア州立大学ノースリッジ校在学中、1972年のMLBドラフトでメジャーリーグベースボールのミネソタ・ツインズから26巡目(全体の596番目)指名を受け大学を中退してプロ入りした。 4月8日にメジャーデビュー。4月20日の対オークランド・アスレチックス戦でバート・キャンパネリスの飛球を捕球しようとダイビングキャッチを試みて外野の壁に衝突して足首を負傷して2ヶ月近く離脱してしまう。 はこの年に首位打者のタイトルを獲得したロッド・カルーに次ぐ打率2位の.336を記録。11月21日にFAでカリフォルニア・エンゼルスへ移籍。 の4月は月間打率.150しか打てず、4月分の給料の返上を申し出た。チームから拒否されたので、慈善事業に4月分の給与を寄付すると発表した。ボストックは以前にもバーミングハムの日曜学校の再建を支援し、ロサンゼルスの恵まれない青少年のためにスポーツ用品を購入していた。シーズン終盤に射殺事件に巻き込まれ(後述)、27歳の若さで死亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ライマン・ボストック」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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