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ラインゴルト (Rheingold) はオランダとドイツ〔第二次世界大戦後は西ドイツ〕南部、スイスなどを、ドイツのライン川沿いを経由して結んでいた昼行の国際列車である。1928年から第二次世界大戦による中断を挟んで1987年まで運行されており、1965年からはTEEの一列車でもあった。1951年から1954年まではラインゴルト急行 (Rheingold Express) という名称だった。 オランダ側の起点はアムステルダムおよびフーク・ファン・ホラント〔Hoek van Holland, ロッテルダム市内の港。〕であり、スイス側の終点は時期によりバーゼルまたはジュネーヴなどである。また1983年以降はミュンヘン方面への分岐も存在した。 列車名はドイツ語で「ラインの黄金」を意味し、リヒャルト・ワーグナーの楽劇「ラインの黄金」の元にもなった中世ドイツの叙事詩ニーベルンゲンの歌に登場する、ライン川の底に沈められたニーベルンゲン族の財宝に由来する。 == 歴史 == === 前史 === 第一次世界大戦以前は、ドイツ帝国とスイス、イタリアを結ぶ列車は、のちのラインゴルトの経路であるライン右岸のバーデン大公国経由ではなく、当時はドイツ帝国領であった左岸のエルザス(現フランス領アルザス)経由を主としていた。1901年に運行を開始したフーク・ファン・ホラント - バーゼル間の昼行急行D164/163列車はラインゴルトの前身ともいえる列車であるが、上部ライン地域においてはビンガーブリュック〔Bingerbrück. 現在はビンゲン・アム・ラインの一部。〕から南下しノイシュタット〔Neustadt an der Haardt. バイエルン王国のプファルツ地方。〕、シュトラスブルク(ストラスブール)を経由していた。この列車にはフリッシンゲン〔Vlissingen. オランダ、ゼーラント州。〕-バーゼル間、アムステルダム - ミラノ間などを直通する客車も連結されていた。 第一次世界大戦の終戦後、ドイツでは経済の混乱やフランス、ベルギーによるルール占領などのため、列車の運行には困難な状況が続いた。1924年のドーズ案受諾とドイツ国営鉄道会社(Deutsche Reichsbahn-Gesellschaft, DRG)の発足により鉄道は安定を取り戻した。国際列車の運行に関しては、大戦前に列車を運行していた国際寝台車会社(ワゴン・リ)と、大戦中にワゴン・リの路線網を奪う形で設立された中央ヨーロッパ寝台車食堂車会社(ミトローパ)の間で対立があったが、1925年に両社とドイツ国営鉄道の間で協定が成立し、ドイツとオランダなどの間の列車はミトローパの担当とされた。 1925年夏からは、オランダのナイメーヘンとスイスのバーゼルを、クレーヴェ、ケルン、ヴィースバーデン、マインツ、ルートヴィヒスハーフェン、マンハイム、カールスルーエを経由して結ぶ長距離急行列車〔Fernschnellzug. 急行列車(Schnellzug)の上位に当たる種別で、1923年に新設された。「特急列車」と訳されることもある。〕 FD164/163列車が運行されている。 ドイツ国営鉄道は、01形機関車に始まる標準化された蒸気機関車の製造を進める一方で、豪華客車を利用した旅客列車を計画した。このような列車を運行する路線として最初に選ばれたのが、ケルンとマンハイムの間のライン川に沿う景勝区間である。これを南北に延長し、北はオランダ、南はスイスに至る列車としてラインゴルトは構想された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラインゴルト (列車)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Rheingold (train) 」があります。 スポンサード リンク
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