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ロンズデール伯爵(ロンズデイル伯爵; )は、イギリスの伯爵位。これまでに2度創設されており、1784年に創設されたときはグレートブリテン貴族、1807年に創設されたときは連合王国貴族である。いずれもラウザー家(; ローサー家)の人物が保持している。 中世より1937年まで、ラウザー家はカンブリア州ウェストモーランド()のラウザー城(; ローサー城)を邸宅としていた。 == 歴史 == ラウザー家は、西部国境警備責任者()を務めたサー・リチャード・ラウザー(1529年 - 1607年)の子孫である。サー・リチャードの曾孫であるはウェストモーランド選出庶民院議員となった人物で、1638年頃にチャールズ2世から準男爵(カウンティ・オヴ・ウェストモーランドにおけるラウザーの; 、)の称号を与えられた。 サー・ジョン・ラウザー初代準男爵の長男であるは早世したため、その長男で初代準男爵の孫にあたるが第2代準男爵となった。彼はウィリアム3世の下で第一大蔵卿や王璽尚書を務めた政治家で、1696年にラウザー男爵()およびロンズデール子爵(; ともにイングランド貴族)に叙された。 初代ロンズデール子爵が死去すると長男のが、次いで次男のが襲爵した。 第3代ロンズデール子爵ヘンリーはハノーヴァー朝初期の廷臣で、ジョージ1世のとなったほか、ウォルポール内閣で一時王璽尚書を務めた。未婚であった彼の死によりロンズデール子爵は断絶したが、準男爵位や資産は又従弟(初代準男爵の次男の孫)のが相続した。 第5代準男爵となったサー・ジェイムズは1784年に、カウンティ・オヴ・ウェストモーランドにおけるラウザーのラウザー男爵()、カウンティ・オヴ・ウェストモーランドにおけるケンダル男爵()、カウンティ・オヴ・カンバーランドにおけるバラ男爵()、ロンズデール子爵()、ラウザー子爵()およびロンズデール伯爵(、いずれもグレートブリテン貴族)に叙された。しかし彼には子が生まれず爵位が一代で断絶することが予想されたため、1797年に加えて上述の初代準男爵の兄弟の玄孫であるを相続人とする付きでカウンティ・オヴ・カンバーランドにおけるホワイトヘイヴンのラウザー男爵()およびカウンティ・オヴ・カンバーランドにおけるホワイトヘイヴンのラウザー子爵()に叙された。 1802年に初代ロンズデール伯爵ジェイムズは死去し、準男爵や1784年創設の爵位は断絶したが、ラウザー子爵はに従って、トーリー党所属庶民院議員を務めていたサー・ウィリアムが相続した。彼は1807年にカウンティ・オヴ・ウェストモーランドにおけるロンズデール伯爵(、連合王国貴族)に叙され、ロンズデール伯爵が再興された。なお同年にガーター勲章も授けられている。 初代ロンズデール伯爵の長男であるもトーリー党の政治家であった。彼は逓信公社総裁()を務めていた1844年に父親の死去によって襲爵し、では枢密院議長()として入閣した。 2代伯は生涯結婚しなかったため、伯位はの長男であるが相続した。 3代伯が死去すると長男の、次男のヒュー、四男のが順に襲爵した。5代伯ヒューはスポーツ愛好家として知られ、ボクシング・サッカー・モータースポーツといった様々なスポーツの協会設立や運営に関わった。ボクシングではナショナル・スポーツ・クラブ()を設立して初代会長となったほか、を寄贈し、1996年に国際ボクシング名誉の殿堂博物館に殿堂入りした。モータースポーツではイギリス自動車協会(; AA)を設立して初代会長を務め、AAは彼の好んだ色である黄色をイメージカラーとしている。またファッションブランドのロンズデールや葉巻きたばこの「ロンズデールサイズ」も彼に由来する。しかしこの5代伯の散財により、6代伯ランスロットはラウザー城をオークションに掛けざるを得なくなった。 6代伯の長男であるは早世したため、その長男のが7代伯となった。2010年現在のロンズデール伯爵は7代伯の唯一の男子であるで、2006年に襲爵した。8代伯は精子提供を受けた人工授精による子を養子としているが、彼には伯位の継承権がない。このため8代伯の異母弟が推定相続人となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロンズデール伯爵」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Earl of Lonsdale 」があります。 スポンサード リンク
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