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ラオスの歴史(ラオスのれきし)では、ラオス人民民主共和国の歴史について記述する。 == 歴史 == === ラーオ族前史 === ラーオ族による統一国家の出現は1353年のラーンサーン王国であるが、それ以前から民族としての活動は活発だった〔ただし、この頃のラーオ族はタイ族やシャン族といったタイ系諸族との種族的、言語的な分化は行われていない状態にあった。ラーンサーン王国建国前のラーオ族のみを切り出して歴史を述べることは非常に困難を極めるため、「ラーオ族前史」の節においてのラーオ族とはタイ系諸族を包括したものであることをあらかじめ記す。〕。ラーオ族の発祥はアルタイ山脈の麓あたりとされており、年代を経るにつれて南下をしていることが分かっている。紀元前5000年頃にはすでに黄河や揚子江の中間あたりまで南下を進めており、ゴビ砂漠に興った漢民族に押し出される形で現在の四川省近辺に移住し、そこに都市国家(ムアン)をつくった。 紀元前1000年頃には西安の北西にムアン・ルン、現在の重慶の位置にムアン・パー、長沙近辺にムアン・ギャオという都市国家を作っており、周の皇帝がムアン・パーに使節を派遣したことなどが記されている〔『ラオ族史』- ウカム・ポム・ウォンサー、1958年〕。その後紀元前853年にはタタール族が北方より侵出を始め、ラーオ族はムアン・ルンを破棄しムアン・パーへ移住している。その後周によりムアン・パーも攻撃を受け、ムアン・ギャオへと移った。 紀元前215年には秦によりムアン・ギャオも攻撃を受けたため、ラーオ族はさらに南下し、現在の雲南省・保山近辺にムアン・ペーガイという都市国家を新しく形成した。紀元前110年ごろ、前漢の武帝は仏教の経典調査団をインドへ派遣しようとしていたが、ムアン・ペーガイの初代国王クン・メンはこの使節団のムアン・ペーガイ通過を許可しなかったため、ムアン・ペーガイと前漢との対立が勃発した。この対立は約7年間続いたが、紀元前87年にムアン・ペーガイは滅亡する。9年にクン・メンの子孫にあたるクン・ワンによりムアン・ペーガイ独立が宣言されたが、これも長くは持たず、50年に後漢により再び滅ぼされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラオスの歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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