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ラシード・ウォーレス(Rasheed Abdul Wallace、1974年9月17日 - )はアメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。身長211cm、体重104.3kg。ポジションはフォワード又はセンター。ビッグマンながら攻守ともに優れた選手と同時に"歩くテクニカルファウル"と呼ばれるほどテクニカルファウルが多い事でも有名な選手であった。 == 経歴 == ジェリー・スタックハウスらと共にノースカロライナ大学でプレイしていたウォレスは、1995年のNBAドラフトでワシントン・ブレッツから全体4位の指名を受け、NBA選手となった。1年目は65試合に出場し51試合で先発、1試合平均10.1得点、4.7リバウンドという成績で、1995-96シーズンのオールルーキーセカンドチームに選ばれる。また、オールスターウィークエンドのイベント、ルーキーチャレンジに出場した。シーズン終了後にポートランド・トレイルブレイザーズへトレードされた。 2000年、2001年にはNBAオールスターゲームに出場。2002年、1試合平均19.4得点という自己最高の成績を残した。しかしブレイザーズ在籍中は、感情的な行動を取る、問題のある選手と報道されることが多かった。1シーズンに受けたテクニカルファウル数のNBAリーグ最多という不名誉な記録を持っている。また、1シーズン中に退場させられた回数でも最多記録を持っている。 2001年、デンバー・ナゲッツ戦でキャリアハイとなる42得点を挙げた。その年のプレイオフで、ブレイザーズがウェスタン・カンファレンス決勝まで進出することに貢献した。ブレイザーズ時代にはメディアに対して積極的に会見に応じることが少なく、ある試合後の会見では5つの質問全てに対して「“Both teams played hard.”(両チームとも懸命にプレイした)」と返答し、リーグから罰金を科せられたことがある。試合中に地元のファンからブーイングを浴びせられることさえあった。 2004年2月、ウォーレスはアトランタ・ホークスへトレードされた。その後まもなくトレード期限数時間前、デトロイト・ピストンズがウォーレス獲得に動いた。ウォーレスはホークスで1試合のみに出場し、ピストンズへ移籍した。彼が移籍したことを喜んでいたブレイザーズのファンは多数いたが、その数々の問題を起こしてきたウォーレスは、「チームバスケット」を掲げるラリー・ブラウンヘッドコーチ率いるピストンズに良くなじみ、エゴを捨てたチームプレイヤーとなった。それまではファン、審判、報道関係者等、多方面から素行に関しては良い評価を得られなかったウォーレスだが、同じチームの選手や関係者ら、ウォーレスの身近な人々からの評価は移籍当初から決して悪くはなかった。移籍して数ヵ月後、彼はピストンズの主力選手として、14年ぶりのNBAファイナル優勝をデトロイトにもたらす原動力となった。その後も攻守にわたって、さらに性格面からもピストンズの核となり、チームを牽引し勝利に大きく貢献しており、彼の調子がチームの勝敗を左右するといっても過言ではなかった。また、2006年にはNBAオールスターゲームにも出場した。 2008-09シーズン後、FAとなったウォーレスは2009年7月、ボストン・セルティックスへ移籍した。この時、ウォーレス獲得のために、セルティックスのBIG3(ポール・ピアース、レイ・アレン、ケビン・ガーネット)とドック・リバースHCが直接ウォーレスの自宅に赴いて説得を行ったと言われている。セルティックスでは、6thマンとしてガーネットやケンドリック・パーキンスのインサイド陣を支え、その年のNBAファイナル出場に貢献した。ファイナルではロサンゼルス・レイカーズと対戦。ゲーム7では、ゲーム6で負傷退場したパーキンスの代わりに先発出場して奮闘した。 2010年6月25日、現役引退を発表した。正式な引退の日時は2010年8月10日。 2012年10月3日、ニューヨーク・ニックスと契約。NBAに復帰した。しかし怪我のためシーズンの半分以上を欠場し、プレーオフを前に再び引退を発表。 2013-14シーズンからデトロイト・ピストンズのHCにブレイザーズ時代のHCであるモーリス・チークスが就任、ウォーレスも全盛期を過ごした古巣ピストンズのアシスタントコーチに就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラシード・ウォーレス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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