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ラッセル・ウィリアム・ヴォルクマン(Russell William Volckmann, 1911年9月23日 - 1982年6月30日)は、アメリカ合衆国の軍人。第二次世界大戦期、アメリカ陸軍の歩兵将校としてフィリピン・コモンウェルスの軍事顧問を務めたほか、日本軍占領下のフィリピンでは抗日ゲリラの指導者として活動した〔Hogan 1992.〕。戦後も陸軍に残り、新たな特殊部隊の創設に関与した。現在、ヴォルクマン大佐の名はおよびの両大佐と共にグリンベレー創設者の1人として記憶されている。最終階級は准将。 ==戦前== 1911年、アイオワ州クリントンにて生を受ける。 1930年、陸軍士官学校に入校。1934年6月に卒業し、歩兵科少尉に任官する〔Guardia 2010, pp. 17-18.〕。当初は将校らの間で人気のある勤務地だったフィリピンへの配属を希望していたが、士官学校での成績が平均以下だった為、ヴォルクマンの希望は退けられることとなる。結局、彼はミネソタ州の第3歩兵師団に配属され、小銃小隊長や中隊副官として勤務した。1937年、ジョージア州にて歩兵将校高等課程(Infantry Officer Advanced Course)に参加するようにと命令を受ける。課程修了後、テキサス州に配属され、第2歩兵師団付中隊長として勤務した〔Guardia 2010, p. 193.〕。1940年、フィリピン派遣への参加が決定する〔Guardia 2010, p. 18.〕。 1940年夏、当時29歳のヴォルクマン大尉は妻と息子を連れてフィリピンへ向かった。到着後、彼はH中隊長に任命された〔Guardia 2010, p. 20.〕。1941年7月、フィリピン陸軍の第11歩兵師団第11歩兵連隊に連隊副官として配属される。通常、この役職は尉官が務めるものではないが、当時は太平洋の政治的緊張の高まりからフィリピン陸軍の早急な拡大が求められており、効果的な訓練を行うべく従来より多くのアメリカ人顧問が必要とされていたのである〔Guardia 2010, pp. 20–22.〕。 1941年8月、日米開戦の可能性が高まる中、ヴォルクマンの妻子を含む在比米軍人の家族全員がアメリカ本土へ送り返される〔Guardia 2010, p. 23.〕。1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。同日、日本軍によるフィリピン攻撃が始まった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラッセル・ヴォルクマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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