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小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる〔 〕。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) 。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。 ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの〔一般的には本人が「サギ」(heron)と発音が似ていたから気に入ったとされる。〕。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。 1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗る〔小泉八雲(こいずみ やくも) (文京区)〕。「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる〔。 日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版した。 セツの養祖父・稲垣万右衛門が『古事記』にある日本最古の和歌からとって名付けた、とある。〕。 == 経歴 == 1850年、当時はイギリス領であったレフカダ島(1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーンと、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティのもとに出生。生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いた。 父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ・アイリッシュである。イギリス軍の軍医少佐としてレフカダ島 (Lefkada) の町リュカディアに駐在中、キティラ島(イタリア語読みではセリゴ島)の裕福なギリシャ人名士の娘であるローザ・カシマティと結婚した。 1852年、両親とともに父の家があるダブリンに移住し、幼少時代を同地で過ごす。 父が西インドに赴任中の1854年、精神を病んだ母がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった。 フランス・イギリスで教育を受けた後、1859年に渡米。得意のフランス語を活かし、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博す。 1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚。 松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺した。日本では『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った再話文学で知られる。 1904年(明治37年)に狭心症で死去。満54歳没。彼が松江時代に居住していた住居は、1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。 ドナルド・キーン、イザベラ・バード、アーネスト・フェノロサ、ヴェンセスラウ・デ・モラエス、ブルーノ・タウト、アンドレ・マルロー等とならび、著名な日本・日本文化紹介者の一人であり、彼が遺した数々の文献は日本人にとっても祖国の文化を顧る際の重要なよすがとなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小泉八雲」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lafcadio Hearn 」があります。 スポンサード リンク
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