翻訳と辞書
Words near each other
・ ラリー・ジョン・マクナリー
・ ラリー・ジョーンズ
・ ラリー・ジョーンズ (曖昧さ回避)
・ ラリー・ジョー・バード
・ ラリー・ジークフリード
・ ラリー・スウェーデン
・ ラリー・スコット
・ ラリー・スコット (ボディビルダー)
・ ラリー・スチュワート
・ ラリー・スチュワート (慈善活動家)
ラリー・ズビスコ
・ ラリー・ソーン
・ ラリー・ダイアモンド
・ ラリー・ダーカー
・ ラリー・チャールズ
・ ラリー・ディマジオ
・ ラリー・デヴィッド
・ ラリー・ドイチェランド
・ ラリー・ドイチュラント
・ ラリー・ドイル


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ラリー・ズビスコ : ウィキペディア日本語版
ラリー・ズビスコ

ラリー・ズビスコ"The Cruncher" Larry Zbyszko、本名:Lawrence Whistler1953年12月5日〔- )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーイリノイ州シカゴ出身のポーランド系アメリカ人。生年は1951年ともされる〔。
ベビーフェイスとして活動後、WWFにて師匠のブルーノ・サンマルチノを裏切ったというアングルのもとヒールに転向。以降、1980年代から2000年代にかけて、NWAAWAWCWTNAなど各団体で活躍した〔。息子のティム・ズビスコもプロレスラーであり、インディー団体で活動している。
== 来歴 ==

=== WWWF〜WWF ===
学生時代に培ったレスリングの素養を下地に、ブルーノ・サンマルチノニュートン・タットリーのトレーニングを受け、彼らがプロモートしていたペンシルベニア州ピッツバーグでの興行において1972年9月1日にデビュー。ポーランド系の出自ということもあり、リングネームは戦前に活躍したポーランドの伝説的レスラー、スタニスラウス・ズビスコにあやかって付けられた。
ピッツバーグや太平洋岸北西部での活動を経て、1974年よりWWWFへ本格的に参戦〔。「ニューヨークの帝王」サンマルチノの愛弟子として、ベビーフェイス陣営の重鎮だったゴリラ・モンスーンヘイスタック・カルホーンのパートナーにも起用され、バリアント・ブラザーズキラー・コワルスキーボビー・ダンカンニコライ・ボルコフなどと対戦してキャリアを積む。同年はプロレスリング・イラストレーテッド誌の新人賞を受賞〔。翌1975年9月にはサンマルチノの斡旋で全日本プロレスに初来日している〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P38(2002年、日本スポーツ出版社)〕。
ジョージアフロリダノース&サウスカロライナロサンゼルスなどNWAの各テリトリーも転戦しつつ、1977年よりWWWFに定着〔。1978年11月21日にはトニー・ガレアと組んでピエール&エリックユーコン・ランバージャックスからWWWF世界タッグ王座を奪取、翌1979年3月6日にジョニー&ジェリー・バリアントに破れるまで戴冠した。
その間、ビンス・マクマホン・シニアのブッキングで1978年6月に新日本プロレスに来日〔。新日本には1979年4月の第2回MSGシリーズにも参加し、予選で星野勘太郎に2勝して決勝リーグに進出。アントニオ猪木藤波辰巳アンドレ・ザ・ジャイアントスタン・ハンセンとも公式戦で対戦したが、パートナーのトニー・ガレアから1勝を挙げたのみの戦績で終わった。
WWWFがWWFに改称してからも、若手のベビーフェイスとして新王者ボブ・バックランドやサンマルチノのパートナーを務めたが、1980年1月22日に行われたサンマルチノとのエキシビション・マッチでヒールに転向。恩師を裏切った男として観客の大ブーイングを浴びる。以降、かつての師匠との遺恨試合を東部一帯で繰り広げ、同年8月9日にはシェイ・スタジアムに3万6295人の大観衆を集めた "Showdown at Shea" のメインイベントでスチール・ケージ・マッチを行った〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラリー・ズビスコ」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.