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ラリー・ドイル
ローレンス・ジョゼフ・"ラリー"・ドイル(Lawrence Joseph "Larry" Doyle、1886年7月31日 - 1974年3月1日)は、主に1910年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手。ポジションは二塁手。イリノイ州ケイシーヴィル生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Laughing Larry"(ラフィン・ラリー)。ナショナルリーグ3連覇の頃のニューヨーク・ジャイアンツのキャプテンを務め、1912年にはリーグ最優秀選手に選ばれた。 == 経歴 == 炭鉱夫の息子として生まれ、自身も少年期にはイリノイ州の炭鉱で坑夫として働いていた。1907年にマイナーのスプリングフィールド球団からニューヨーク・ジャイアンツに入団、当初は三塁手だったが、メジャーではジョン・マグローの進言で二塁にコンバートされ、以後二塁以外のポジションについたことはなかった。2年目からジャイアンツのキャプテンを務め、守備率が低くエラーの多かったドイルを起用するマグローにも批判があったが、ドイル自身は3年目の1909年から打撃面・走塁面での活躍するようになり、この年はリーグ最多の172安打を記録、またこの年から1913年まで5年連続の30盗塁以上を記録した。 ジャイアンツがナショナルリーグを3連覇する間、ドイルは1911年にリーグ最多の25本の三塁打と102得点を記録、次の年の1912年には打率.330を記録し、リーグの最優秀選手に選ばれる。チームは1913年まで3年続けてワールドシリーズに出場するも、アメリカンリーグのフィラデルフィア・アスレチックスやボストン・レッドソックスの前に屈し、ドイル自身は一度もワールドシリーズ制覇を経験することがなかった。1913年オフには、ジョン・マグローらが率いる「世界周遊野球チーム」に参加し、日本でも試合を行っている。 その後1915年にはリーグ最多の189安打と.320の打率を残しナショナルリーグの首位打者となったが、翌1916年のシーズン終盤にヘイニー・ジマーマンらとの交換でシカゴ・カブスにトレードされる。カブスには1年在籍後、1918年にジャイアンツに復帰、1920年まで選手を務めた後引退。引退後1942年に結核を発症したあとは、ニューヨーク市郊外のサラナク湖岸で長く療養生活を送った。1974年に87歳で死去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラリー・ドイル」の詳細全文を読む
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