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邵逸夫(ランラン・ショウ、英語:Shaw Run Run、1907年11月19日 - 2014年1月7日)は、香港の企業家である。香港映画の製作会社である邵氏兄弟(ショウ・ブラザーズ・英語:Shaw Brothers)や、香港最大のテレビ局無綫電視(英語:Television Broadcast Limited, TVB)の創立者として知られる。〔香港映画の巨人、邵逸夫氏が死去 106歳 産経新聞 2014年1月7日閲覧〕。戦後の香港映画の黄金期とその後のテレビ時代の先導者として〔香港メディアの功労者、邵逸夫氏が死去 106歳 日本経済新聞 2014年1月7日閲覧〕、香港のメディア王と呼ばれていた〔香港のメディア王、邵逸夫氏が106歳で死去 Reuters Japan 2014年1月7日閲覧〕。 == メディア事業 == 邵は1907年に清国浙江省寧波市で、上海出身の裕福な実業家の10人兄弟の末っ子として生まれた。学生時代から、長兄の邵酔翁が上海で創立した映画会社“天一映画会社”において、俳優やカメラマンとして参加していた。 1926年、三番目の兄の邵仁枚(ラミー・ショウ)とマレー半島に移住し、“天一”が製作した映画の海外市場を開拓した。 1937年、邵酔翁に代わり、二番目の兄の邵邨人が責任者になり、社名を“天一”から“南洋映画会社”に改名した。やがて日中戦争が勃発し、上海に残っていた“天一”の製作拠点を香港に移動し、名称も“南洋映画会社”から“邵氏父子会社”に再度変更した。戦争中は香港も占領され、一時的に映画製作本数が減少し、また戦後はアメリカ映画の進出によって次第に経営不振となったため、1957年に邵邨人に代わって邵逸夫が社長となり、映画製作を始めた。 1958年、“邵氏父子”とは別に“邵氏兄弟(ショウ・ブラザーズ)”を設立し、本格的に映画製作に力を入れる様になると、香港映画の人気が回復してゆく。1965年には、「邵氏影城」と呼ばれる東洋一の巨大スタジオを建設し、「東洋のハリウッド」と呼ばれる映画王国を築き上げた。1985年までの間に製作した映画の本数は、約1,000本に達した。なかでも、中国の武術からヒントを得たカンフー映画は、その後香港を代表する映画のジャンルに成長し、世界各国の映画界にも影響を与える存在となった。〔ランラン・ショウ(邵逸夫) 独立国家 真珠帝國〕 1967年には、新たにテレビ事業にも参入し、香港発の無線テレビ局として無綫電視(電視広播有限公司(TVB))を設立し、豊富な財力と映画製作で培った製作能力を生かして香港における有力メディアに育て上げた。TVBでは俳優養成所も設立し、そこから多くの有名香港人俳優を輩出した。 しかし1970年には、ショウ・ブラザーズの製作本部長を務めていたレイモンド・チョウ(鄒文懐/Raymond Chow)が、レナード・ホー(何冠昌/Leonald K.C.Ho)やショウ・ブラザースのスターだったジミー・ウォング(王羽)らと共に独立し、新たな映画会社ゴールデン・ハーベスト(嘉禾、嘉禾電影有限公司、Golden Harvest)を創立した。ゴールデン・ハーベストは、ショウ・ブラザーズのオーディションに落ちたブルース・リーを主演に起用した映画が大ヒットを記録し、リーの死後も、マイケル・ホイ〔元々、TVB所属のタレントであり、映画デビューはショウ・ブラザーズからであった。〕やジャッキー・チェンなどの人気俳優を得て次々とヒット作を量産してゆくのに対し、かつての勢いを失ったショウ・ブラザーズは低迷し、さらに後発の「シネマシティ」などにも追い上げられ、邵仁枚(ラミー・ショウ)が1985年に死去したのを契機に、映画製作を停止する事になった。以後邵は、無綫電視の経営を中心に高齢になるまで活動し、2011年に退任するまでCEOを務め、毎年11月に放送される開局記念番組にも、必ず顔を見せていた。 この間、1977年にはイギリスのエリザベス女王からサーの称号を受け、それからは通称「サー・ランラン・ショウ」と呼ばれる様になった。また1983年の第2回香港電影金像奨では終身成就獎を受賞している〔第2屆香港電影金像獎得獎名單 香港電影金像奨 Hong Kong Film Awards〕。 2011年にはCEOを退任し、所有していた株式も売却して引退生活に入ったが、2014年1月7日、老衰によって香港の自宅で死去し〔邵逸夫氏死去=香港映画界の大立者 時事ドットコム〕、106年の人生に幕を下ろした〔〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「邵逸夫」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Run Run Shaw 」があります。 スポンサード リンク
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