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ラ・サールの探検は、シュール・ド・ラ・サール(Sieur de La Salle)に率いられたフランス人探検家の一行の、ミシシッピ川やオハイオバレーを巡る一連の旅である。1660年代の終わりに始まったこの探検旅行は、20年にわたって続けられた。旅した先の多くは、それまでヨーロッパ人が未踏だったところもかなりあった。この探検により、ルイジアナのフランス植民地から、カナダのフランス植民地までの陸上交易路が整備された。また、遠征で立ち寄った先々は、フランス国王ルイ14世の所領となり、この地域への、1世紀近くに及ぶフランス支配の口火を切った。 ==前半期の探検== ===歴史的背景=== 1666年、ラ・サールはヌーベルフランスに到着した〔Esarey, p. 4〕。彼はルーアンの裕福な商人の息子で、イエズス会の神学校で学び、聖職者を志したが、22歳の時に探検に魅了され〔http://www.britannica.com/EBchecked/topic/326519/Rene-Robert-Cavelier-sieur-de-La-Salle〕、インディアンとの交易事業をするつもりで新大陸へ渡ったのである。ラ・サールはすぐにモントリオールへ向かった。この町は、当時フランスの支配下にあった地域の中で、最も遠くにある内陸地の交易所であり、その当時は、教会とさして変わらない存在だった。ここには、イエズス会の宣教師で、(ヒューロン)族への布教のために赴任している彼の兄弟がいた。またこの時期はイロコイ戦争の只中であり、フランス王国が後ろ盾になったが、イロコイ連邦と、彼らを支持するイングランド人とを相手に、残忍な戦闘を繰り広げていた〔Esarey, p. 4〕。 ラサールは、現在のケベック州ラシーヌの近くに広域な土地を購入し、そこで交易所を始めた〔Esarey, p. 5〕。この土地購入により、地主(seigneur)の称号と、探検家としてのチャンスがラ・サールに与えられた〔。地元のインディアンから毛皮を購入し、仲買人として、ヨーロッパの商人にそれを売り、本国に持ち帰らせる仕事は、かなり繁盛した。ラ・サールはセネカ族の交易商人から、初めてオハイオカントリーのことを教わった。そこには幅の広い川が流れ、大海に注ぎ込んでいるという。そういう川が実在するのなら、交易に役立つのは明らかだった。ラ・サールは、その川への興味をそそられた。もしそれが存在するのなら、内陸部への交易の旅も可能であり、陸上の経路よりはるかに簡単である〔 。そこが発見されたら、川に沿って交易することで、儲けも大きくなるだろう。当時のヨーロッパ人は、自分たちは、アジアの香辛料の原産地からそう遠くないところにいると思っており、ラサールは、その経路はインドに通じているのだろうと考えたのである〔。 1672年から1682年、ラサールはヌーベルフランス総督のフロンテナックと交際して、共にオンタリオ湖畔のカタラキ(現在のキングストン)にフロンテナック砦を建ててイロコイ連邦を牽制し、五大湖上流地方と、沿岸部のオランダやイングランドの入植地との毛皮交易を妨害した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラ・サールの探検」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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