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ラーフェンスブリュック強制収容所 : ウィキペディア日本語版 | ラーフェンスブリュック強制収容所[らーふぇんすぶりゅっくきょうせいしゅうようしょ]
ラーフェンスブリュック強制収容所()は、ナチス・ドイツの強制収容所のひとつ。主に女性を収容していたことで知られる。ドイツ東部メクレンブルク地方のフュルステンベルク市の近くに存在した。ベルリンからは北に80キロほどの場所である。総計12万人以上の女性が収容され、6万人以上が死亡したとみられる。 == 概要 ==
1938年末にフュルテンベルクにラーフェンスベルク強制収容所の建設が開始された。建設作業にはザクセンハウゼン強制収容所の囚人達が駆り出された。1939年5月13日に最初の囚人としてドイツ人女性860人、オーストリア人女性7人がここに移送されてきた。さらに6月29日にジプシーの女性440人が移送されている。ポーランド占領後の9月23日以降、ポーランド人女性の移送もされてきた。1939年の末の時点で収容所には1168人の女性囚人が収容されていた。その後、第二次世界大戦によるドイツの領土の拡大に伴い、どんどん収容者数が増加する。最終的には総計で23か国12万3000人もの女性がここに登録された。 他の強制収容所と同様、収容所の周囲は高い壁と高電圧鉄条網に囲まれ、機関銃付きの監視塔が囚人ににらみを利かせていた。囚人バラックの数は当初16棟だったが、収容者数の増加に伴い最終的には32棟にまで増設されることとなった。基本的にラーフェンスブリュックは女性用の収容所であったが、男性も収容されることがあり、男性は女性とは別の小収容区と呼ばれる場所に収容されていた。 1944年末には病人を処理するためにガス室が設置された。1945年4月初め、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーとスウェーデン赤十字社の協定に基づき、囚人の交換輸送列車でのスイスへ移送が開始される(ただし病人はガス室に送られ、殺害される)。またラーフェンスブリュックの労働分隊は他の収容所へ向けて死の行進を行わされた。1945年4月30日にソ連赤軍がここに到着した時、女囚はフランス人女性数名だけであったという。一方男性収容区には死体400人、生存者400人ほどが残されていたという。もっとも生存者達も飢え死に寸前の状態であったという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラーフェンスブリュック強制収容所」の詳細全文を読む
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