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ラーマ7世 : ウィキペディア日本語版
ラーマ7世[らーま7せい]

ラーマ7世()は、チャクリー王朝の第7代のシャム国王。通称はポッククラオであり、幼名をプラチャーティポックサックディデートというため、その一部を取ってプラチャーティポック()とも呼ばれる。タイにおける最後の絶対君主であり、最初の立憲君主である。
== 生涯 ==

プラチャーティポックはバンコク王宮で、ラーマ5世パッチャリン妃の間に生まれた。イギリスイートン・カレッジ、ウーリッジ士官学校フランスエコール・シュペリウール・ド・ゲール(Ecole Superieure de Guerre)で学び、1924年の帰国後は短期間ながら軍人として働いていた。プラチャーティポックは国王になった後もこのときに軍人であったことを誇りにしていた。
本来であれば国王になる予定ではなかったが、兄のラーマ6世に成人した子供がいなかったため、ラーマ6世が崩御すると異母弟であったプラチャーティポックが急遽王位に就くことになった。予期せぬ即位で、ラーマ6世が持っていた様な政治的基盤を築く暇がなかったため、政治的基盤が薄く、ラーマ7世は旧勢力の王族と、官僚の間で苦悶することとなった。
ラーマ7世は先王の代に抱え込んだ負債の処理に即位後すぐに直面した。この事態の打開を計るため5人からなる最高顧問会議を開き、全力で問題を解決しようとしたが、アメリカ世界恐慌に見まわれたため、悪化していた国家財政がどん底まで悪化した。そこで、王室費用を900万バーツから最終的に300万バーツに切りつめる「合理化」を行った。ラーマ7世はついでに官僚の人事も「合理化」したため官僚、なかんずく民主的な雰囲気の中で教育されたフランス留学組官僚の怒りを買った。この合理化に対する危機感は、後に人民党を生み出した。
ラーマ7世は1931年眼病手術のためアメリカを訪れた時から、議会制導入を考えるようになった。そのための憲法草案を作成し、いざ発表する段階になると、最高顧問会議のメンバーを中心とする王族の猛烈な反対に遭い断念した。これに業を煮やしたパホン大佐ピブーンソンクラームプリーディー・パノムヨン率いる人民党が、ラーマ7世がフワヒンへ療養に出かけている最中に立憲革命を起こし、1932年ラーマ7世に憲法を発布させた。これにより、ラーマ5世以来続いた絶対君主制に終止符が打たれた。
しかし、新政府は王政を廃止せず、代わりに国王の承認を権力のよりどころとする立憲君主制を導入したため、ラーマ7世は翌年、目の病気を理由にイギリスへ逃亡した。国王の承認をよりどころにしていた新政府は、国王の承認を取り付けるためイギリスまで行かねばならず、事務の円滑な処理が出来なかったので、ラーマ7世にタイへ戻るように頼んだが、ラーマ7世は拒否し続けた。その後、いつまで経っても民主制に移行しようとしないパホン政権に抗議するために1935年に自らの意志で退位した。そのままイギリスで不遇なまま過ごしたが、1941年に死去した。遺骨は1949年にタイへ帰還した。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラーマ7世」の詳細全文を読む



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