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ラーム・シング : ウィキペディア日本語版
ラーム・シング

ラーム・シング(Ram Singh, 生年不詳 - 1688年3月)は、北インドラージャスターン地方アンベール王国の君主(在位:1667年 - 1688年)。ラーム・シング1世(Ram Singh I)とも呼ばれる。
==生涯==

===即位以前と即位===
アンベール王国の君主ジャイ・シングの息子として、アンベールで誕生した〔JAIPUR (Princely State) (17 gun salute) 〕〔Jaipur (Princely State) 〕。
ラーム・シングは父ジャイ・シングのたびかさなる遠征に従軍し、1654年までに騎兵3,000の司令官となった。
1660年、ラーム・シングは皇帝アウラングゼーブの命により、単独でガルワールシュリーナガルへの遠征に向かった。
1664年以降、父ジャイ・シングは下の息子とともにマラーターの指導者シヴァージーを打倒するため、デカン地方へ遠征に向かっていた。ラーム・シングは宮廷に残り、父からの返答を待った。
1665年、父ジャイ・シングはシヴァージーに勝利し、ラーム・シングにシヴァージーとともにアウラングゼーブに面会するように伝えた。1666年に彼はシヴァージーとともにアウラングゼーブにアーグラで面会したものの、シヴァージーとアウラングゼーブは仲たがいし、シヴァージーは幽閉された。
その後、1667年にシヴァージーはアーグラ城から脱走し、ラーム・シングにその手引きをしたとの嫌疑がかかった〔ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.150〕。父ジャイ・シングはその嫌疑を晴らすために宮廷へと向かったが、 同年8月28日にその途中のブルハーンプルで死亡した〔JAIPUR (Princely State) (17 gun salute) 〕。これにより、ラーム・シングは王位を継承した〔JAIPUR (Princely State) (17 gun salute) 〕〔Jaipur (Princely State) 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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