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リカルド・マヨルガ(Ricardo Mayorga、男性、1973年10月3日 - )は、ニカラグアのプロボクサー。元WBA・WBC世界ウェルター級スーパー王者。第35代WBC世界スーパーウェルター級王者。2階級制覇王者。 左右のフックとアッパーを振り回す強打のラフファイターで「''El Matador''(闘牛士)」の異名が示すとおり、リスクをかえりみず勇猛果敢に打ち合いに挑み、倒すか倒されるかという勝負をする。その勝ちっぷりと負けっぷりの激しさから人気者である。またリング外での奇行や傍若無人な言動も有名で、計量時にチキンやリンゴをかじり、試合終了後リングで葉巻を燻らしていたこともある。喫煙だけでなく飲酒を公言していることでも知られている。 試合発表のプレゼンと前日の公式会見やフェイスオフでマヨルガのちょっかいもしくは言動がきっかけで乱闘を引き起こすことが多く、度々関係者が引き離す事態を起こしていた。 2013年、総合格闘技に参戦した〔あのマヨルガが格闘技デビュー ボクシングニュース「Box-on!」2013年5月7日〕。 入場曲はロス・ファブロソス・カディラクスのマタドール。 == 来歴 == === ボクシング === 1993年8月29日にプロデビュー(結果は6回TKO負け)。母国ニカラグアやコスタリカを中心に試合を行い、1995年1月28日には母国ニカラグアの国内タイトルを獲得。その後3年間ブランクがあり1998年には2連敗を喫した時期があったものの、1999年7月24日にFECARBOXスーパーウェルター級王座を獲得。2000年3月18日にはWBAフェデラテンスーパーウェルター級王座を獲得。これら地域タイトルを計5度防衛し、着実に世界ランクを上げていった。 2001年2月3日、マンダレイ・ベイ・イベント・センターでアメリカデビューを果たし3回2分48秒TKO勝ち。なおこの試合からドン・キングと契約を交わした。 初のメジャー世界タイトル戦は2001年7月28日、WBA世界ウェルター級王者アンドリュー・ルイス()との対戦である。しかし、この試合は偶然のバッティングにより試合続行不可能となり無効試合となった。しかし、2002年3月30日に再度アンドリュー・ルイスに挑戦し今度は5回TKOで勝利してWBA世界ウェルター級王者となった。 2003年1月25日にはWBC世界ウェルター級王者のバーノン・フォレスト()と王座統一戦を行い、3回TKOで勝利して統一王者となり、WBA規定によりスーパー王座に認定された。試合終了後リング上で喫煙を行った。同年7月12日にもダイレクトリマッチを行い、再度判定で勝ち、同年12月13日にはIBF世界ウェルター級王者のコーリー・スピンクス()と3団体王座統一戦を行うが、今度は判定で敗れWBA世界ウェルター級スーパー王座から陥落、WBC世界ウェルター級王座からも陥落した。この試合は8大タイトルマッチの一環として行われた。 2003年10月に発売された『リングマガジン』2003年12月号には、タバコを咥えたマヨルガが表紙を飾り、「スポーツ界で最もクレージーな男」と題された。 その後、2階級上のミドル級まで上げ、2004年10月2日にフェリックス・トリニダード()と対戦するが8回TKO負け。 階級を1つ下げスーパーウェルター級に戻り、2005年8月13日に元IBF世界ウェルター級王者のミケーレ・ピッチリーリョ()に12回判定勝ちで空位のWBC世界スーパーウェルター級王座を獲得し、2階級制覇を達成した。 2006年5月6日の初防衛戦でオスカー・デ・ラ・ホーヤ()に初回左フックで上体が反転するダウンを奪われてペースを失うと6回にはボディからのフックでぐらつき連打でダウンを喫し最後も連打を浴びてレフェリーがストップ。6回1分25秒TKO負けで初防衛は出来なかった。試合後のドーピング検査でマヨルガから利尿剤のフロセミドが検出された。 2007年7月26日、元WBA世界スーパーウェルター級王者で元IBF世界スーパーウェルター級王者のフェルナンド・バルガス()と世界ランカー同士のサバイバルマッチが行われる事が決まったが、気性の激しい両者が乱闘を行った事から異例となるアクリル樹脂板で仕切られて記者会見が行われた〔アクリル板で仕切られ記者会見に臨む 「AFPBB News」 2006年6月11日〕、試合は同年11月23日に行われマヨルガが2-0の僅差判定勝ちを収めた〔リカルド・マヨルガ 判定でフェルナンド・バルガスを降す 「AFPBB News」 2007年11月24日〕。 2008年9月27日、米国・カリフォルニア州ロサンゼルス郡カーソンのホーム・デポ・センターにてWBAインターコンチネンタルスーパーウェルター級王座決定戦をシェーン・モズリー()と行い、序盤からパンチを強引に振り回していき相手のペース配分を奪う好調な滑り出しで試合を進めるが、中盤以降モズリーにテクニックで応戦され徐々にポイントを奪い返される。終盤まで両者一歩も引かない展開が続いたが最終回、ここまで驚異的なタフネスで攻撃を凌いできたマヨルガがキャンパスに尻もちをつき、立ち上がるもすかさず左フックを貰い2度目のダウンでマヨルガは失神。12回終了のゴングと共に試合が終了。12回2分59秒KO負けを喫し、モズリーにとっては劇的な勝利となった。 2011年3月12日、個人的な確執があったミゲール・コット()の持つWBA世界スーパーウェルター級スーパー王座に挑戦、マヨルガは12回にレフェリーに試合を左拳の異常を訴え試合を止めるよう促し、12回TKO負けとなった〔 ボクシングニュース「Box-on!」2011年3月13日〕。試合後「次の仕事を探す時が来た」とボクシングからの引退を発表した。 その後、アントニオ・マルガリートと対戦する噂や、2013年3月にロシアで試合を行う噂が流れるが実現には至らなかった。 2014年2月21日にロードアイランド州でボクシング復帰戦が組まれるが、2010年の総合格闘技挑戦時に続きドン・キングから再び独占契約をたてに裁判所へ提訴されたことで延期となり、代わりに3月22日にブルガリアで復帰戦を行う予定であったがこれも中止となった。 2014年9月27日、オクラホマシティのOKC・ダウンタウン・エアパークで約3年半ぶりのボクシング復帰。アレン・メディナと対戦し、往年のリスクを顧みない攻撃で圧倒し1回1分3秒TKO勝ちで復帰に花を添えた〔マヨルガ、カンパス、懐かしの名前が勢ぞろい Boxing News(ボクシングニュース) 2014年9月28日〕。 2015年8月29日、カリフォルニア州イングルウッドのフォーラムでシェーン・モズリーとスーパーウェルター級契約12回戦で対戦予定だったが、マヨルガが7.4ポンドの体重超過の失態を犯したため5万ドルの罰金を科せられたうえで行われ、ボディアッパーでダウンを奪われてキャリア初のカウンテッドアウトとなる6回2分59秒KO負けを喫した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リカルド・マヨルガ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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