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リクサ・シロンスカ リクサ・シロンスカ(ポーランド語:Ryksa Śląska, 1136年/1140年頃 - 1185年6月16日)は、中世ポーランドの王女で、レオン・カスティーリャ王妃、プロヴァンス伯妃、エーファーシュタイン伯夫人。スペイン語名リキルダ・デ・ポロニア(Riquilda de Polonia)、ドイツ語名リヒェンツァ・ピアステン(Richenza Piasten)。 ポーランド大公を務めたシロンスク公ヴワディスワフ2世(亡命公)の長女、母はオーストリア辺境伯レオポルト3世の娘でドイツ王コンラート3世の異父妹にあたるアグネス。 == 生涯 ==
=== カスティーリャ及びレオンの王妃 === 1146年、父ヴワディスワフ2世はポーランド君主の座を追われたため、リクサは両親や兄弟たちと共に亡命生活を送ることになった。一家はまずボヘミアに赴き、次いでドイツ王国に移った。ドイツ王コンラート3世は君主位を失った義弟のためにザクセンのアルテンブルクを所領として与えた。 1151年、レオンとカスティーリャの王アルフォンソ7世が、政略結婚を通じてドイツ王国と同盟関係を結ぶ意向を示しているという話が持ち上がった。コンラート3世の姪であるリクサは、イベリア半島の支配者の妃候補として最もふさわしい立場にいた。1152年の10月から12月の間に、リクサはアルフォンソ7世と結婚した。アルフォンソ7世にとっては、リクサは2番目の妻だった。カスティーリャではリクサはリキルダと呼ばれた。リクサにとって最初の子供であるフェルナンドは、1153年の暮れにトレドで生れた。その2年後の1155年、リクサは第2子である娘サンチャを出産した。1157年8月21日、アルフォンソ7世はシエラ・モレナでムーア人と戦っている最中に突然死した。リクサの息子フェルナンドも父の死の直前に亡くなっていた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リクサ・シロンスカ」の詳細全文を読む
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