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李 承晩(り・しょうばん、イ・スンマン 1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫は全州李氏。号は「」(ウナム、)。字は「承龍」(スンニョン、)。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リ・スンマン」と呼ばれるが、これは韓国では語頭子音の脱落が起こるためである(朝鮮語の南北間差異参照。)。韓国でも1950年代以前には「(リ・スンマン)」と綴られていた(英文での本人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。 == 略年表 == * 1875年3月26日 - 黄海道開城市近郊の平山郡馬山面大慶里(現・黄海南道峰泉郡)にて生誕。 * 桃洞書堂で漢学を学ぶ。 * 1896年(明治29年)- アメリカ人のキリスト教宣教師アペンセラーが設立した培材学堂で学び始める。 * 1896年 - 徐載弼(ソ・ジェピル)の「独立協会」の結成に中心メンバーとして加わる。 * 1897年(明治30年) - 培材学堂在学中に高宗退位要求の檄文散布に加わり投獄される。投獄中にプロテスタントの監理教会派に入信。 * 1904年(明治37年) - 特赦による出獄後、アメリカ合衆国に渡る。 * 1907年(明治40年) - ジョージ・ワシントン大学で学士号取得。 * 1908年(明治41年) - ハーバード大学卒で修士号取得。 * 1910年(明治43年) - プリンストン大学で政治学博士号取得。博士論文は「アメリカの影響を受けた永世中立論」。この年、帰国する。 * 1911年(明治44年) - 寺内正毅朝鮮総督暗殺計画に連座して投獄される。 * 1912年(明治45年) - アメリカ合衆国に亡命。 * 1919年(大正8年) - 中華民国の上海で大韓民国臨時政府樹立。李承晩によってワシントンD.C.に欧米委員部設立。 * 1920年(大正9年) - 大韓民国臨時政府大統領に推される。しかし派閥抗争から失脚。ハワイに拠点を移す。 * 1933年(昭和8年) - 満州事変を討議する国際連盟総会に大韓民国臨時政府全権代表として出席。 * 1934年(昭和9年) - オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。 * 1941年 -『日本の内幕記』を著す。日本の対米宣戦を予告。 * 1945年(昭和20年)10月 - 日本の降伏と朝鮮解放に伴い、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に帰還。 * 1946年 2月 - 大韓独立促進国民会を結成。総裁に就任。 * 1948年(昭和23年)4月3日 - 済州島四・三事件反乱鎮圧。 * 1948年(昭和23年)8月15日 - 朝鮮半島南部単独で大韓民国建国。初代大統領に就任。 * 1948年(昭和23年)10月 - 連合国軍占領下の日本を非公式訪問(ダグラス・マッカーサーGHQ司令官などとの会談のため)。 * 1948年(昭和23年)10月27日 - 麗水・順天事件反乱鎮圧。 * 1948年(昭和23年)12月1日 - 国家保安法を制定。 * 1949年(昭和24年)6月5日 - 国民保導連盟を組織させる。 * 1949年(昭和24年)12月24日 - 聞慶虐殺事件。 * 1950年(昭和25年)6月25日 - 朝鮮戦争勃発。 * 1950年(昭和25年)6月 - 国民保導連盟の加盟者や収監中の政治犯など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺(保導連盟事件)。 * 1951年(昭和26年)1月 - 前線で戦闘中の将兵の物資を転売し着服(国民防衛軍事件)。 * 1952年(昭和27年)1月18日 - 海洋主権宣言。「平和線」、いわゆる李承晩ラインを設定する。 * 1952年(昭和27年)5月26日 - 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(釜山政治波動)。 * 1956年(昭和31年)5月15日 - 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。 * 1958年(昭和33年) - 進歩党党首の曺奉岩をスパイ容疑で逮捕。1959年7月に処刑。 * 1959年(昭和34年) - 新潟日赤センター爆破未遂事件。 * 1960年(昭和35年) - 3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。 * 1960年(昭和35年)4月19日 - 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)。 * 1965年(昭和40年)7月19日 - 亡命先のハワイにて90歳で客死。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李承晩」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Syngman Rhee 」があります。 スポンサード リンク
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