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リッキー・ギブソン(Ricky Gibson、本名:Rick Cain、1952年11月19日 - 2006年9月15日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州ペンサコーラ出身。 ロックンロール・エクスプレスで活躍したロバート・ギブソンの実兄であり、ロバートとの兄弟タッグチーム、ザ・ギブソン・ブラザーズ(The Gibson Brothers)でも活動した。 1975年7月の全日本プロレス初来日時、ミサイルキックを日本で初公開したことで知られる〔。 == 来歴 == YMCAでレスリングを学び、プロレス会場での写真やコーラの売り子を経て、地元ペンサコーラをサーキット・エリアとするアラバマのNWAガルフ・コースト地区にて、1970年に17歳でデビュー〔。 若手のベビーフェイスとして活動し、1972年12月29日にバトルロイヤルで優勝してNWAアラバマ・ヘビー級王座を獲得。1973年12月7日にはスティーブ・カーンと組んでガルフ・コースト地区のUSタッグ王座にも戴冠した。1974年からは、長年の主戦場となるテネシーのNWAミッドアメリカ地区にも参戦し、1974年6月3日にジェリー・ローラーを破りNWA南部ジュニアヘビー級王座を獲得している。 1975年7月、全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズ』に初来日。開幕戦では外国人エースの一角ボビー・ダンカンのパートナーに起用されてメインイベントに出場し、ジャイアント馬場&アントン・ヘーシンクと対戦した。シリーズ第14戦目となる7月21日の新潟市体育館大会では、ジャンボ鶴田を相手にコーナーポスト最上段からのミサイル・ドロップキックを日本で初公開〔、試合には敗れたものの話題を集めた(後に鶴田はこの技を、大一番の切り札として使用するようになる)。 1976年はボブ・ガイゲルが主宰していた中西部のセントラル・ステーツ・レスリングに進出し、10月1日にブルドッグ・ボブ・ブラウンからNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を奪取。10月25日にはハーリー・レイスの挑戦を受け、時間切れ引き分けで防衛に成功した。以降もボブ・スローターなどを相手に防衛戦を行い、11月22日まで王座を保持している〔。 主戦場のテネシーでは、同地区のトップスターだったビル・ダンディーともコンビを組み、1977年1月24日にデビッド・シュルツ&ダッチ・マンテルを破ってNWA南部タッグ王座を獲得。5月1日にも、前年にデビューした弟のロバート・ギブソンをパートナーに、デニス・コンドリー&フィル・ヒッカーソンから同タッグ王座を奪取、ギブソン・ブラザーズとしての初戴冠を果たしている〔。 以降、1970年代末よりロバートとのギブソン・ブラザーズでの活動を本格的に開始。1979年6月20日にはロサンゼルスにてツイン・デビルズを破りNWAアメリカス・タッグ王座を獲得。テネシーでは1980年から1982年にかけて、NWAミッドアメリカの後継団体CWAにて、キューバン・アサシン&イラニアン・アサシン、ブロンド・ボンバーズ(ラリー・レイザム&ウェイン・ファリス)、ミスター・オーニタ&マサ・フチ、スタン・レーン&スウィート・ブラウン・シュガーなどのチームを相手に、NWAからAWAの認定タイトルとなった南部タッグ王座を争った〔。 1983年はアラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングにてシングルプレイヤーとして活動したが、自動車事故により引退を余儀なくされた〔〔。その後、散発的にリングに復帰し、リッキー・リー・ジョーンズ(Ricky Lee Jones)のリングネームでジム・クロケット・プロモーションズなどに出場するも、本格的なカムバックを果たすことはなかった。 1994年8月5日、ジム・コルネットが主宰していたスモーキー・マウンテン・レスリングにて、ロバート・ギブソン&リッキー・モートンのロックンロール・エクスプレスのセコンドとして公の場に久々に登場〔。対戦相手チームのクリス・キャンディード&ブライアン・リーのマネージャー、タミー・リン・シッチとも対峙した。 2006年9月15日、フロリダ州ミルトンの自宅にて死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リッキー・ギブソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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