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リック・マーテル(Rick "The Model" Martel、本名:Richard Vigneault、1956年3月18日 - )は、フランス系カナダ人の元プロレスラー。カナダのケベック州ケベック・シティー出身。第31代AWA世界ヘビー級王者。 全盛時の1980年代は甘いマスクの二枚目ベビーフェイスとして黄色い声援を集め、円熟期に入った1990年代はルックスの良さを鼻にかけたナルシシスト系ヒールに転じて観客のブーイングを煽るなど、善悪両方のポジションで活躍した。 == 来歴 == 少年時代にレスリングを学び、ピエール・マーチンとのタッグチームで活動していた兄のマイク・マーテルの影響を受けプロレスラーを志し、1972年6月7日に16歳でデビュー〔。1974年にカルガリー地区のインターナショナル・タッグ王座を獲得し、1976年10月には国際プロレスに初来日、11月14日に足利にて寺西勇のIWA世界ミッドヘビー級王座に挑戦した〔『忘れじの国際プロレス』P102(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。 以降もカナダを主戦場に各地を転戦し、ニュージーランドでは1977年5月26日にキング・イヤウケア、1979年3月19日にピエール・マーチン、同年9月3日にミスター・フジを破り、NWA英連邦ヘビー級王座を通算3回獲得。その間にはアメリカ合衆国本土にも進出し、ジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングで活動、1978年9月23日にはトミー・リッチと組んでイワン・コロフ&オレイ・アンダーソンからNWAジョージア・タッグ王座を奪取している。 1979年から1980年にかけては、太平洋岸北西部のオレゴンおよびワシントン州をサーキット・エリアとするパシフィック・ノースウエスト・レスリング(PNW)にてロディ・パイパーとのコンビで活躍。ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムスのザ・シープハーダーズと抗争を繰り広げ、NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を再三獲得した。1980年2月には全日本プロレスに初参戦、同時参加したディック・マードック、キラー・トーア・カマタ、カリプス・ハリケーン、ジョニー・バリアント、ガイ・ミッチェル、ドクトル・ワグナーなどのベテラン勢に混じってフレッシュなファイトを展開し、ワグナーと組んでドス・カラスともタッグマッチで再三対戦した。 1980年8月、バディ・ローズとのルーザー・リーブス・タウン・マッチに敗れてPNWを離れ〔、ニューヨークのWWFに登場。同年11月8日、トニー・ガレアと組んでワイルド・サモアンズを破りWWFタッグ王座を奪取した。翌1981年3月17日、ザ・ムーンドッグス(キング&レックス)に敗れて一度は王座を失うも、同年7月21日に奪回〔。2回に渡って同王座を獲得したことで一躍トップレスラーの仲間入りを果たす。この当時から何度となく新日本プロレスへの来日が予定され、IWGPリーグ戦のカナダ代表選手とされたこともあるが、新日本登場は一度も実現しなかった。 WWFを離れてからは地元のモントリオールに定着し、ジノ・ブリットらが主宰していたインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)にて活動、1982年から1983年にかけてディノ・ブラボーやビル・ロビンソンとカナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座を争う。その後、当時モントリオールと提携していたAWAに本格参戦し、1984年5月13日、ミネソタ州セントポールのシビック・センターにおいてジャンボ鶴田を破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。AWA王座在位中の1985年10月21日には全日本プロレスの両国国技館大会にて、当時のNWA世界ヘビー級王者であったリック・フレアーと史上初のAWAとNWAの世界ダブルタイトルマッチを行っている(結果は両者リングアウト)。同年12月29日、ニュージャージー州イーストラザフォードでスタン・ハンセンに破れるまで、1年7か月の間AWA王座を保持した〔。以後はモントリオール地区に復帰し、同地区で頭角を現していたトム・ジンクとのコンビで1986年末の世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦している。 1987年、カンナム・コネクション(The Can-Am Connection)のチーム名でジンクと共に再びWWFに参戦、3月29日のレッスルマニアIIIではカウボーイ・ボブ・オートン&マグニフィセント・ムラコから勝利を収めた。ジンクのWWF離脱後は、ティト・サンタナを新パートナーにイケメン系タッグチームのストライク・フォース(Strike Force)を結成し、10月27日にハート・ファウンデーションからWWF世界タッグ王座を奪取、翌1988年3月27日のレッスルマニアIVでアックスとスマッシュのデモリッションに敗れるまで保持した〔。 王座陥落後もサンタナとのコンビで活動したが、1989年4月2日のレッスルマニアVでのブレーン・バスターズ(タリー・ブランチャード&アーン・アンダーソン)戦でサンタナと仲間割れ。以降はスリックをマネージャーに迎え、ザ・モデル(The Model)というキザなキャラクターのヒールに転向、1989年10月14日のキング・オブ・ザ・リングではサンタナと決勝戦を争った(結果は準優勝)。1990年4月13日、東京ドームで行われた日米レスリングサミットにもヒールのポジションで来日、カート・ヘニングと組んで因縁のジャンボ鶴田&キング・ハクと対戦した。1991年1月19日のロイヤルランブル'91では53分間生き残りの最長時間記録(当時)を樹立〔。同年末にはWWFと提携していたSWSに来日し、12月12日、東京ドームでのSWS認定ジュニアヘビー級王座決定戦で佐野直喜の相手を務めた。 ザ・モデルのキャラクターでは "Arrogance" なるブランドの香水スプレーを対戦相手の顔に噴射する反則行為を得意とし〔、このスプレー攻撃でジェイク・ロバーツの目を負傷させたというアングルが組まれ、1991年3月24日のレッスルマニアVIIでは、互いに黒い頭巾を被り盲目状態のまま試合を行うブラインドフォールド・マッチが行われた〔。1992年は、当時同じく色悪系のヒールとして台頭していたショーン・マイケルズと女性マネージャーのセンセーショナル・シェリーを巡って対立、8月29日のサマースラム'92にて両者の対戦が行われている〔。同年のレッスルマニアVIIIに端を発するタタンカとの抗争では、彼からインディアンの羽飾りを奪い、それを自身のファッションのアクセサリーにして彼の怒りを煽った。1993年9月には、ショーン・マイケルズの戦線離脱で空位となっていたインターコンチネンタル王座をレイザー・ラモンと争うなど〔、長期間に渡ってWWFで活躍したが、徐々に中堅ヒールのポジションに甘んじるようになり、1995年にWWFを離脱した。 その後はカナダのインディー団体を経て、1997年下期よりWCWに参戦。1998年2月16日にフロリダ州タンパでブッカー・Tを破りWCW世界TV王座を獲得するが、6日後の2月22日のリターンマッチで王座を奪回される。この試合でマーテルは着地に失敗し、右膝内部の靭帯を裂いて骨折。軟骨の損傷をも負ってしまい、引退を余儀なくされた〔。近年は地元のケベック・シティーで不動産開発事業を手掛けている。 2007年6月24日、WWEのヴェンジェンス'07において久々にファンの前に登場。かつてのタッグパートナーのトニー・ガレアと共に、デュース・アンド・ドミノに攻撃されるジミー・スヌーカとサージェント・スローターを救出し、大歓声で迎えられた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リック・マーテル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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