翻訳と辞書 |
リマウ作戦 リマウ作戦(リマウさくせん)は、1944年10月に、英国陸軍の中佐ら英濠軍の特殊部隊(:en:Z Special Unit)が、日本軍が占領統治していた昭南特別市(シンガポール)の昭南港で、前年のジェイウィック作戦に続いて2度目の日本艦船爆破を計画した作戦。「リマウ」はマレー語で「虎」を意味するため、虎作戦とも呼ばれる。日本の監視船に発見されて計画は未遂に終わり、日本軍との戦闘でライアン中佐らは戦死、隊員10人が捕虜となった。捕虜は1945年7月にシンガポールで開かれた日本軍の軍律裁判により全員処刑された。〔この記事の主な出典は、遠藤(1996)および篠崎(1976) 196-203頁。〕 == リマウ作戦 ==
1944年3月以降、前年9月のジェイウィック作戦の成功を受けてイギリスの特殊作戦執行部は中佐と作戦会議を重ね、シンガポールを攻撃対象とする2度目のゲリラ的な破壊活動「リマウ〔マレー語で「虎」の意味(遠藤(1996) 71頁)。〕作戦」の実行を決めた〔遠藤(1996) 67-74頁〕。隊長のライアン中佐を含めて23人の隊員が作戦に参加した〔遠藤(1996) 67-74頁〕。 リマウ作戦では、攻撃目標とする船舶にリムペット(吸着爆弾)を取り付ける作業を超小型の特殊潜水艇〔1942年5月の日本軍による特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の際に、シドニー湾を襲撃して自爆した日本の特殊潜航艇を引揚げて、それを見本として魚雷を装備せず機雷設置を行うための潜水艇を開発したもので(篠崎(1976) 196頁)、本来の英名「Submergible Boat」から「Sleeping Beauty(眠れる美女)」の愛称で呼ばれていた(遠藤(1996) 69頁、篠崎(1976) 196頁)。〕を用いて行い、潜水艦でシンガポールに接近した後、特殊潜水艇を運ぶ船を現地調達する計画だった〔遠藤(1996) 67-74頁〕。 1944年9月14日〔遠藤(1996) 74-78頁。ブラッドリー(2001) 151,162頁では「9月11日」〕、ライアン中佐ら23人の決死隊員と超小型潜水艇の開発者で英国陸軍のチャップマン少佐は、の軍港〔遠藤(1996)74-78頁、ブラッドリー(2001)151頁。ブラッドリー(2001)162頁の引用文中では「西オーストラリア州パース」。〕を潜水艦「ポーパス」号で出港し、同月23日にに到着、中継基地を設営した〔ブラッドリー(2001)151-152,162頁、遠藤(1996) 74-78頁。〕。ライアン中佐らは、メラパス島の南270キロにあるペジャンタン(Pejantan)島周辺でプラウを鹵獲して「ムスティカ(Mustika)」号と名付け、以後この船で現地船を装って移動した〔ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁〕〔その後、潜水艦「ポーパス」は、11月8日以降にメラパス島に隊員を迎えに来ることを約し、ムスティカ号の元の乗組員を収容してチャップマン少佐の操舵でいったんオーストラリアへ戻り、ライアン中佐らはメラパス島へ戻った(ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁)〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リマウ作戦」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|