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ルシル・ボール(Lucille Désirée Ball、1911年8月6日 - 1989年4月26日)はアメリカのコメディアン、モデル、映画およびテレビの女優、映画会社の重役。『アイ・ラブ・ルーシー』、『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』、『ザ・ルーシー・ショー』、『陽気なルーシー』、『ライフ・ウイズ・ルーシー』などのシットコムの主演で知られ、存命中アメリカで最も人気があり影響力のある人物の1人とされた。またハリウッドで活動期間の長い俳優の1人でもあった。1930年代から1940年代、映画会社RKOでコーラス・ガールなどの端役として出演していたが、1950年代からテレビで主演するようになった。1960年代から1970年代は映画に出演した。1962年、『スパイ大作戦』や『スタートレック』など多くの人気連続ドラマを製作する大規模テレビ・スタジオのデシルに女性で初めて入社した〔"Arnaz Quits Presidency Of Desilu; Former Wife, Lucille Ball, Gets Post," ''Wall Street Journal'', Nov. 9, 1962, p. 18.〕。 エミー賞に13回ノミネートされ、4回受賞した。1977年、''Women in Film Crystal Award'' の最初の受賞者となった。1979年、ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞、1986年、ケネディ・センター名誉賞特別功労賞、1989年、''Academy of Television Arts & Sciences Governors Award'' を受賞した。 1929年、モデルとして活動を始め、後に芸名を「ダイアン・ベルモント」としてブロードウェイで演技の活動を始めた。1930年代、RKOと契約し、映画で多くの端役を経験した。B級映画での多くの役柄により「B級映画の女王」と呼ばれていた。1951年、連続ドラマ『アイ・ラブ・ルーシー』の製作に携わった。夫ルーシー・リカード役に当時実生活でも夫であったデジ・アーナズ、エセル・マーツ役にヴィヴィアン・バンス、フレッド・マーツ役にウィリアム・フローレイが共演した。マーツ夫妻はリカード夫妻の住むアパートの管理人で友人である。この番組は180エピソード放送され1957年に終了した。1957年から1960年、『''Westinghouse Desilu Playhouse'' 』の一環の1時間番組で、出演者の追加はあったがこの4人は続投した。この番組の正式なタイトルは、第1シーズンは『''The Ford Lucille Ball-Desi Arnaz Show'' 』、第2シーズンは『''The Westinghouse Desilu Playhouse Presents The Lucille Ball-Desi Arnaz Show'' 』であった。以降1967年まで毎年夏、CBSで『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』として放送された。特別番組の際にはアン・サザン、ルビー・ヴァリー、タルラー・バンクヘッド、フレッド・マクマレイおよびジューン・ヘイヴァー、ベティ・グレイブおよびハリー・ジェイムス、フェルナンド・ラマス、モーリス・シュヴァリエ、ダニー・トーマスおよび彼の番組『''Make Room for Daddy'' 』の共演者であるレッド・スケルトン、ポール・ダグラス、アイダ・ルピノ、ハワード・ダフ、ミルトン・バール、ロバート・カミングスなどが出演し、最終回『''Lucy Meets the Moustache'' 』にはアーニー・コヴァックスおよびエディ・アダムスが出演した。他に1962年から1968年までCBSで『ルーシー・ショー』(156エピソード)、1968年から1974年まで『陽気なルーシー』(144エピソード)に主演した。彼女の最後の連続テレビドラマ出演は『''Life with Lucy'' 』であったが、13エピソード製作されたものの8エピソードで打ち切りとなった。 1940年、キューバ人バンドリーダーのデジ・アーナズと駆け落ちした。1951年7月17日、およそ40歳で第一子長女ルーシー・アーナズを出産し、その1年半後、第二子長男デジ・アーナズJr.を出産した。1960年5月4日、離婚。 1989年4月26日、77歳で大動脈解離により亡くなった。当時、仕事上のパートナーでスタンダップ・コメディアンのゲイリー・モートンと再婚しており、27年以上におよぶ結婚生活を送っていた。 == 生い立ち == 1911年8月6日、ニューヨーク州のジェームズタウンで父ヘンリー・ダレル・ボール(1887年9月16日 - 1915年2月19日)と母デゼレイ・イヴ・ハント(愛称''DeDe'' ) (1892年9月21日 - 1977年7月20日)との子として生を受ける。出身地についてはモンタナ州ビュートと語ることもある。「ニューヨーク生まれ」よりも「モンタナ生まれ」の方がよりロマンティックだと彼女が語ったと複数の雑誌で報じられ、自分が「西部の子」であると作り上げたとされる〔Higham , C. (1986). Lucy: The life of Lucille Ball . New York: St. Martin's Press.〕。彼女が3歳の頃、モンタナ州アナコンダに転居し、その直後父が亡くなり、その後ミシガン州''Wyandotte'' に転居した。彼女の一家はバプテスト教会の信者で、スコットランド、フランス、アイルランド、イングランドの血を引いている。系図によるとマサチューセッツ湾植民地の初期の入植者エドマンド・ライスなど植民時代初期の入植者の子孫とみられる。 ''Bell Telephone Company'' の電話保線工員であった父は転勤が多く、彼女が生まれてからの3年間でジェームズタウンからアナコンダ、その後ニュージャージー州トレントンに引っ越した〔Interview with Lucille Ball on the Dick Cavett Show . 1974.〕。母が第二子フレッド・ボールを妊娠中、父は腸チフスにかかり、1915年2月に亡くなった。その日のことは、鳥が家の中に入ってきてしまったこと以外は写真でしか覚えていない。それ以降彼女は鳥恐怖症となった。 父親の死後、彼女と弟のフレッド・ヘンリー・ボール(1915年7月17日 - 2007年2月5日)は母とジェームズタウン西の夏季向けリゾート地である''Chautauqua Lake'' のあるニューヨーク州セレロンに住む祖父母に育てられた。彼女の幼少期に多大な影響を与えたのは当時全米で屈指の行楽地であったセレロン・パークであった。明かり付きの湖に向かう滑り台のような遊歩道、ピア・ボールルーム、ローラーコースター、野外音楽堂、ヴォードヴィルのステージ、コンサート、演劇の定期公演などが行なわれていた〔。祖父のフレッド・ハントは演劇がとても好きであった。彼は時々家族をヴォードヴィルを観に連れて行ったりし、彼女を学校演劇などにも参加させた。父の死から4年後、母は再婚した。継父のエドワード・ピーターソンは母と職探しに他の都市へ出かけ、彼女は継父のピューリタンのスウェーデン人である両親の世話をしなくてはならなかった。彼らはバスルームの1枚を除いて全ての鏡を排除した。彼女が成長し身なりに気を遣うようになると、厳しく罰せられた。この頃のことは彼女に大きな影響を与え、彼女自身は7年か8年続いたと語っているが、実際はそれより短かったとみられる。エドワード・ピーターソンは''Shriner'' であった。彼の組織が女性による歌や踊りが必要となると、12歳の彼女はオーディションに駆りだされた。彼女が舞台に出演するようになると、これこそが自分が賞賛される方法であると確信するようになった。彼女は若いうちから世に出たいと考えていた。1927年、祖父が監視していたにも関わらず、庭で近所の少年が不注意の何者かに撃たれて麻痺が残ったとして裁判により家屋と家具を没収されてしまった。その後ジェイムズタウンの小さなアパートに転居した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルシル・ボール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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