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ルーシ族(ルーシぞく、古ルーシ語:)は、中世東ヨーロッパに侵入したヴァリャーグの内、ルーシ・カガン国やノヴゴロド公国及びキエフ大公国を建国した集団に対して、かつての東スラヴ人が用いた呼称。俗にノルマン人であるとされているが、民族系統については不明で、後述のノルマン説に従えばスウェーデン人の一グループとされる〔『北欧史』p.34〕(論拠として確立されている訳ではない事に注意。あくまでもノルマン支持者の論説の一部)。 中世から近世に至る、東スラヴ人の事を指すルーシ人とは異なる。 原初年代記などといった中世諸国の文書記録では、彼らがノルマン人でありヴァイキングであったことが示唆されているため、ノルマン説が有力であると見られている。これらの文書は、俗説なども含むものの、概ね複数の文明圏の文献などによって推察されている。もっとも確証ある訳ではなく、特に東欧の反ノルマン説論者からの異議として、彼らが本当に「ノルマン人の部族」を指した名称であったのかについての論争が続けられている。ロシアなどでは特定の民族名と言うよりも、東スラヴ人の部族連合のひとつであるポリャーネ族が自称した国号名からの語源が主流となっている。一方で、ルーシ・カガン国の民族構成から、ノルマン人や東スラヴ人の中の一部族ではなく、複数の民族の混血であったとも言われている。 ==概要== ルーシ(ルス)という名称は、東スラヴ人が初めて記述した歴史書「原初年代記『過ぎし日々の物語』(ネストル年代記)」に登場する。そこではヴァリャーグを追放した後、内乱に悩んだスラヴ人貴族たちがヴァリャーグの実力者を王に迎えたいと彼らに嘆願し、それに答えて王として訪れたリューリクが率いてきた集団と書かれている。つまりはリューリクの出身部族、即ちノルマン系の民族を指す言葉として使用されて来た。 しかし近代以降のナショナリズムの中で、帝政ロシア時代の民族主義的な人々は、「ルーシにおけるヴァイキング」という俗説に疑義を唱えるようになった。これが端緒となり、スラヴと民族系統の違うノルマン人を国家成立の起源とすることに疑いの声が寄せられるようになり、ロシア・東欧の歴史学会で盛んに「ノルマン起源」に対する疑問説が交わされるようになった(反ノルマン説)。当初は民族主義的イデオロギーにより検証の面でいく分論拠に乏しいものであった。これはソ連の研究史においても発展し、旧ソ連の共産党機関誌「プラウダ」でも強調的に主張され、〔『ヴァイキングの足跡』p125-126。〕。のち、これは再検討がなされ、考古学的証拠を中心とした研究が行われるようになった。これに対してノルマン起源であることを擁護する立場をノルマン説といい、ノルマン説の学者たちは、当初は、原初年代記および海外文献や資料などを中心に用いて研究を進めたが、現在は考古学的証拠も含めて研究されている。 反ノルマン説・ノルマン説の論戦はルーシ族という特定の統一された部族が実際に存在したのかどうかについても行われた。反ノルマン説は、主にソ連の研究史からスラヴ的な呼称に起源を求めているのに対し、ノルマン説が有力視される証拠として、原初年代記に登場するホルムガルド (ノヴゴロド) やリューリクなどの固有名詞が北ゲルマン語群に属する古ノルド語に由来すると主張した。彼らは特に、ルーシ族の存在を示唆する複数の歴史的な文書記録があると主張している。9世紀のフランク王国における年代記である「サンベルタン年代記」に記載された中で、みずからを「Rhos」(ロース、ロス)と呼ぶヴァイキング(ヴァリャーグ)の一団が登場するが、ノルマン説派はこれに注目し、この「Rhos」は、ルーシ、あるいはルスのことであり、初期のルーシ族のことであると主張している。この一団は、フランク王ルートヴィヒ1世に対して、ロシアの北部に住んでいるが、先祖の出身地はスウェーデンである、と述べたと書かれている。真偽はともかく、ルーシと呼ばれていた人々は、少なくともスカンディナヴィアの人々と何らかの交流があったのであろう。 ルーシの人々が建国したという「ルーシ・カガン国」の民族構成は、スラヴ人、バルト人、フィン人、テュルク系民族、あるいは一部は過去にキエフに到達していたゲルマン系の東ゴート族の生き残りも含まれていたとされている。その人々の中にノルマン人(ノース人)の植民者がおり、ルーシと呼ばれていた。そのルーシは、ノルマン人なのか、ルーシ・カガン国において支配階級であったのかどうか、という点でノルマン説と反ノルマン説の論争が続いている。ノルマン説は、ルーシはヴァリャーグを構成する部族で、彼らはルーシ・カガン国の創設者と言われている。 反ノルマン説では、ヴァリャーグが仮にノルマン人であっても、彼らはもともと交易商人であり、のちに現地の有力者たちとともにルーシの支配階級を構成した人々、すなわち初期ルーシ貴族の一部にすぎなかったとし、スラヴ諸民族の習俗から、リューリクが外来のヴァリャーグ出身であっても、むしろ外来であるからこそ、互いに牽制する関係にあった現地の有力貴族たちから推されて長となったものであるとする。(このような、国内の利権の衝突を避けるためにわざわざ外来の人を元首に据える例はポーランドのヤギェウォ朝やその後の選挙王政などにもみられる。) さらには、コロチン文化の存在により、もしくはそうした人々の混血であったかもしれないという説もある。このように、現代の論争はノルマン説、反ノルマン説、そのどちらとも言えない状態となっている。 ルーシ族は、武装した船団を持ち、河川を遡った。原初年代記に記されるリューリクは、ラドガ湖を下ったヴォルホフ川下流にあったスタラヤ・ラドガ(古ノルド語:「アルデイギュボルグ」(Aldeigjuborg))の支配者であり、862年頃にノヴゴロド(古ノルド語:「ホルムガルド」)を征服しノヴゴロド公国を建国したと記されている。原初年代記に記される以前にノルマン人は、スウェーデンのビルカなどを拠点とし、バルト海沿岸に地歩を固め、航行してネヴァ川などからラドガ湖を経てそこから川伝いに南を目指した。ビルカには、東方のロシア、ヴォルガ川流域からの物産が見つかっている。彼らはヴォルガ川からカスピ海へ、ドニエプル川から黒海への交易航路を有していたが、ヴァリャーグたちにとっては難航路だった。ノルマン説の立場からは、この交易路の確保のためにこの地に拠点となる「支配体制」を確立させる必要性があったことになる〔『北欧史』p.34。〕。反ノルマン説では、交易を主体とする交流であったならば、彼らはアルメニア人など同様の単なる交易商隊であれば、彼らによる支配体制の必然性はないということになるが、ヴァイキングであれば定住し、国家の創設に関わり、それぞれの国・地域に同化して行ったことになる。 ノルマン説の立場を追うと、年代記に記されるリューリクら三兄弟はヴァリャーグと呼ばれ、住民はその支配者たちを、「ルス」と呼称した〔『ヴァイキングの足跡』p116。〕。ルーシ族もまた、同様な足跡を辿り、リューリクの部下とされるアスコルドとジールはキエフを支配し、後にリューリクの親族であるとされるオレグがキエフを奪いキエフ大公国を樹立したと言われている。なお、ヴァリャーグは、黒海にも進出したが、オレグもまた黒海への交易路を抑え、「ヴァリャーギからギリシアへの道」と呼ばれる水陸交易路を完成させたと言う。リューリクの子とされるイーゴリは、この経路を伝い、東ローマ帝国に遠征している。 この様な初期ルーシ族の活動は、ルーシ原初年代記の『過ぎし日々の物語』によってしか言及されておらず、肝心のスウェーデン側からの文献はない(ルーシ・カガン時代のルーシ族への言及は、ルーン石碑に刻銘されている。→ノルマン説を参照)。このことは、後年、歴史家たちの論争に発展し、史実ではなく、伝承、伝説であるとの主張を生む結果となった。 ノルマン説によれば、リューリクたちの活動は、年代記に記されている様なスラヴ人貴族側からによる招致ではなく、他のヴァイキング同様、征服者あるいは武装船団(海賊)であった〔『ヴァイキングの足跡』p116-117。〕ことになる。 後期ルーシ族は急速にスラヴ化し、人名にも東スラヴの言語が用いられる様になったということになる。そしてキエフ大公スヴャトスラフ1世は多数の史料で裏付けることができる東スラヴ人の「リューリク朝」の初の代表者、若しくは創立者となったと言える。スヴャトスラフ1世が確立していた従士制度はゲルマン人起源であるとされ、この従士団はスカンディナヴィア出身であるとされ、スヴャトスラフ1世の子ウラジーミル1世が、スウェーデンで兵士を募りルーシに遠征している。彼らスウェーデン人はルーシに来た最後のヴァリャーグの集団だったとされている〔『ヴァイキングの足跡』p122。〕。ノルマン説の支持者たちは、ウラジーミル1世は、その統治の初期に親スカンディナヴィア政策を取り、ルーシ族の植民を奨励していることをも根拠としている。しかし、彼らの子孫であるヤロスラフ1世は、後世発掘された遺体の研究によって、スラヴ的特徴が多く見られ、これはその頃までにキエフ・ルーシが東スラヴ人のルーシ人の国家となっていた〔『ヴァイキングの足跡』p124。〕ことを示しているといえる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルーシ族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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