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ルドルフ・クラウジウス : ウィキペディア日本語版
ルドルフ・クラウジウス

ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius, 1822年1月2日 - 1888年8月24日)は、ドイツ物理学者熱力学第一法則第二法則の定式化、エントロピーの概念の導入など、熱力学の重要な基礎を築いた。
== 生涯 ==
1822年、プロイセン王国ポンメルンのケスリーン(現ポーランドコシャリン)にて誕生。父は牧師であり、また、小学校の校長でもあったため、クラウジウスはその学校で初等教育を受けた。その後はシュテッティン(現ポーランドシチェチン)のギムナジウムで学んだ。
1840年ベルリン大学に入学。当時のベルリン大の講師としては、物理学者のゲオルク・オーム、数学者のペーター・グスタフ・ディリクレヤコブ・シュタイナー、そして歴史学のレオポルト・フォン・ランケがいた。クラウジウスはランケの影響からか歴史学にも興味を持ったが、最終的に選んだのは物理学だった。経済上の理由から在学中に教員免許を取り、1850年までベルリンのフリードリヒ・ヴェルダー・ギムナジウムで物理を教えた。
1847年、最初の論文を発表し、1848年にはハレ大学から博士号を与えられた。この時期の論文内容は光学に関するもので、太陽の光が大気中で散乱する現象などについて研究している。
1850年、熱力学に関しての初の論文となる「熱の動力、およびそこから熱理論のために演繹しうる諸法則について」を発表した。
同年、ベルリン王立砲工学校の物理学教授、およびベルリン大学私講師となった〔室田(1988)p60〕。
1851年、ジョン・ティンダルと知り合い、生涯を通しての友人となった。ティンダルはクラウジウスの論文の英訳を行い、私生活においても、クラウジウスの最初の子供の名付け親になっている〔セグレ(1992)p310〕。
1854年には論文「力学的熱理論の第二基本定理の1つの改良型について」を発表。熱力学第二法則を確立させた〔室田(1988)p60〕。
1855年、クラウジウスはチューリヒに招かれ、チューリヒ工科大学の教授となった。1857年からはチューリヒ大学教授も兼任した。また、1857年に結婚し、後に6人の子をもうけた。1865年にチューリヒ哲学会で発表した論文では、初めて「エントロピー」という単語を使用した。
1867年にはヴュルツブルク大学教授になり、1869年にはボン大学の教授になった。この間1868年にロンドン王立協会の外国人会員に選出されている。
1870年、普仏戦争が起こり、ボン大学では学生が義勇団を結成した。クラウジウスはその指導者となったが、訓練中に膝を怪我して、その傷はその後も永く残った。さらに1875年には妻アーデルハイトが6番目の子供を出産中に亡くなった。そのため、クラウジウスは子供を育て上げながら研究を続けることとなった。
1879年、クラウジウスの業績に対しロンドン王立協会よりコプリ・メダルが授与された。
1884年から1885年まで、クラウジウスはボン大学の学長を務めた。1886年には再婚し、一子をもうけたが、1888年に貧血症にかかり、同年に亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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