翻訳と辞書
Words near each other
・ ルドルフ・フェルディナント・ヘース
・ ルドルフ・フェルディナンド・ヘス
・ ルドルフ・フォン・イェーリング
・ ルドルフ・フォン・エスターライヒ
・ ルドルフ・フォン・グナイスト
・ ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム
・ ルドルフ・フォン・ハプスブルク
・ ルドルフ・フォン・ビュノー
・ ルドルフ・フォン・ビュノー (陸軍少佐)
・ ルドルフ・フォン・ラインフェルデン
ルドルフ・フォン・リッベントロップ
・ ルドルフ・フォン・ヴィレメース=ズーム
・ ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス
・ ルドルフ・フリムル
・ ルドルフ・ブッフビンダー
・ ルドルフ・ブラント
・ ルドルフ・ブルトマン
・ ルドルフ・ブーフビンダー
・ ルドルフ・プルケルト
・ ルドルフ・ヘス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ルドルフ・フォン・リッベントロップ : ウィキペディア日本語版
ルドルフ・フォン・リッベントロップ

ルドルフ・フォン・リッベントロップ(Rudolf von Ribbentrop、1921年5月11日‐)は、ナチス・ドイツ親衛隊隊員。ヒトラー内閣の外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップの長男。ルドルフ自身も第二次世界大戦で活躍したドイツ軍人として著名である。最終階級は親衛隊大尉
== 略歴 ==
ヴィースバーデンに生まれる。父ヨアヒムが駐英大使であったため、ルドルフはロンドンウェストミンスター・スクールで学んだ。俳優のピーター・ユスティノフはクラスメイトで後にルドルフとの関係を自叙伝『Dear Me』に著した。
1939年、武装親衛隊に新兵として志願し、SS連隊ドイッチュラント(SS-Standarte Deutschland)に配属される。
1940年、フランス戦に親衛隊上等兵として参加し二級鉄十字章を叙勲された。その後、バードテルツのSS士官学校へ入学し、1941年4月親衛隊少尉に任官し、
第6SS山岳師団「ノルト」の偵察大隊小隊長としてに配属された。
1941年、独ソ戦が始まるとフィンランドで勇戦したが、同年9月に負傷して後送され、戦傷章を受けた。10月にはフィンランド政府から自由十字章の叙勲を受けている。1942年2月に退院。その後、ポメラニアで再編中の第1SS装甲師団の戦車小隊長として配属された。
師団は、1943年1月に第三次ハリコフ攻防戦に投入され、3月に親衛隊中尉に昇進し、6月には戦車中隊長になった。7月に師団はツィタデレ作戦に投入され、ルドルフもプロホロフカの戦いに参加し、騎士鉄十字章の叙勲を受けた。
1943年8月に第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」に異動し、中隊長として兵士たちの訓練にあたった。1944年6月3日にイギリス軍の戦闘爆撃機の銃撃により負傷したが、9日には部隊に復帰して戦闘の指揮をとった。ノルマンジー戦の活躍でドイツ十字章や戦車突撃章金章を叙勲された。8月にはかろうじてファレーズ・ポケットから脱出し、連隊長副官になった。12月にはバルジの戦いに参加し、1945年1月親衛隊大尉に昇進した。5月8日に師団とともにアメリカ軍に投降した。
戦後、父ヨアヒムはニュルンベルク裁判で戦犯として絞首刑に処された。
ルドルフは大株主として父が共同経営者を務めていた母の実家である世界有数のスパークリングワイン醸造業の経営に参加した。しかし、戦犯「リッペントロップ」の名を嫌った従兄弟のオットー・ヘンケルが追い出しにかかり、訴訟沙汰に発展した。結局、会社名から「リッペントロップ」を取ることで和解している。
1960年にはミュンヒハウゼン男爵家の令嬢イルゼ・マリーと結婚した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルドルフ・フォン・リッベントロップ」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.