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ルネ・クレール (René Clair、本名:ルネ=ルシアン・ショメット、René-Lucien Chomette, 1898年11月11日 - 1981年3月15日) は、フランスの映画監督・脚本家・映画プロデューサーで「詩的レアリスム」(ジョルジュ・サドゥール)の監督といわれる。 == 来歴 == 1898年11月11日、パリでルネ=ルシアン・ショメットとして生まれ、エミール・ゾラが「パリの胃袋」と呼んだ中央卸売市場のあったレ・アル地区で育った。その後、リセ・モンテーニュとリセ・ルイ・ル・グランの元で学んだ。第一次世界大戦では衛生兵として参加して救急車を運転した。戦後、ルネ・デスプレの名でジャーナリストとなった。シャンソン歌手のダミアに歌詞を提供したことから、ダミアに紹介されて映画に出演した。出演した映画にロシアのヤーコフ・プロタザノフ監督の『死の意味』(1921年)、ルイ・フイヤード監督でサンクトペテルブルグ出身のサンドラ・ミロヴァノフ主演の『孤児の娘』(1921年)があり、革命から逃げてきた白系ロシア人たちとの交流が生まれる。 1922年からブリュッセルで映画技法を学んだ。1924年、監督処女作となる『眠る巴里』(Paris qui dort)、次いでアヴァンギャルドの短編『幕間』を発表した。ロシア領ポーランド生まれの舞台装置家ラザール・メールソン(Lazare Meerson)などと知り合う。以後、『巴里の屋根の下』(1930年)で「詩的レアリスム」の監督として評価されることになる。『自由を我等に』(1931年)〔チャーリー・チャップリンの『モダン・タイムス』が酷似しているとドイツの製作会社トビス社(Tobis Film)が告訴したが、証人に立ったクレールが「もし『モダン・タイムス』が自分の映画からヒントを得ているならば、光栄に思う」と証言して告訴は取り下げになった。〕など、詩情と諧謔と風刺に溢れる多くの映画を発表した。喜劇の『最後の億万長者』(1934年)は日本では評価されたものの、失敗したことから映画プロデューサーのアレクサンダー・コルダに誘われて1935年からはイギリスに渡り、『幽霊西へ行く』(1935年)など2本の作品を発表した。 第二次世界大戦時にはハリウッドに移り、『奥様は魔女』(1942年)やアガサ・クリスティー原作の『そして誰もいなくなった』(1945年)など5本の作品を発表したが、ヴィシー政権からは国籍を剥奪された。戦後、1947年の『沈黙は金』でフランス映画界に復帰した。 その後も『悪魔の美しさ』(1950年)や『夜ごとの美女』(1952年)、『夜の騎士道』(1955年)などを発表し、高く評価された。1953年にはケンブリッジ大学から名誉教授号が授与された。同年、シネマフランセのグランプリを受賞した。1960年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出された。1970年には大阪万国博覧会のために来日した。 1981年3月15日、ヌイイ=シュル=セーヌで死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルネ・クレール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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