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ルネ・ペシェール(Rene Pechere、1908年2月12日-2002年5月9日)はベルギーの造園家、造園学者。ガーデンデザイナー。ベルギー記念物遺跡等委員会委員、イコモス・イフラ合同委員会議長を歴任し、貴重な庭園保護に努める。IFLA/イフラ(International Federation of Landscape Architects、国際造園家連盟)は、ユネスコ傘下の団体として1949年に正式に発足した造園の国際機構で、ペシェールは1958年に景観・歴史的庭園及び遺跡の研究会を立ち上げている。 1964年、ヴェネチア憲章の成立から、ICOMOS/イコモスが1965年から活動するが、1972年11月には世界遺産条約採択を目的に設置された世界遺産委員会が、イコモスやIUCN などが世界遺産登録リストへの推薦、削除に関する検討、審査の協力を進める際の作業指針作成。これをうけて、イコモス及びイフラも歴史的庭園国際委員会の会議を1978年に制定させた。 その後、建築と植物の複合物である庭園の歴史的特色を保存する必要から、1981年にはペシェールの尽力により、ヴェネツィア憲章を補完する「フィレンツェ憲章」を決定した。 ベルギー国内に文化・芸術の賞として、ルネ・ペシェール国際賞がある。 == 人物 == 1908年、ブリュッセルの、イクセル区で生誕。1925年に、造園業者ジュール・バイセンス社で見習いとして働く。1926年から1929年にかけて、仕事を行う傍らで、国立ヴィルボルド園芸学校に入学しで造園を学ぶ。 1929年、フランス国立ナンシー水利・林業学校(現・ENGREF(フランス国立農村工学・河川・森林学校)へ留学。卒業後は帰国して、2年間の兵役を勤める。 1934年にブリュッセルで造園家として活動開始。 1935年には、ブリュッセル万国博覧会 (1935年)の庭園部門長に就任。ジュール・ビュイッサンスのもとで万博に携わったのをきっかけに、この時期、独立した造園設計家として、エラスムスの家など、ブリュッセル市内の公園緑地、庭園が各所に数多く造られていく。 パリ万国博覧会 (1937年)では、ベルギー政府館の庭園デザインを担当。このベルギー館庭園で、同博覧会コンテストグランプリを受賞し、レジオンドヌール・シュヴァリエ勲章にノミネートされる。 1937年から、ブリュッセル市の公共植栽課長を務める。さらに1939年から、国立上級建築造形芸術学校(建築美術高等専門学校ラ・カンブル (学校))教授に就任するが同年、予備役将校として中尉で招集。1940年に侵攻したドイツ軍の捕虜となり、獄中において同じく捕らえられたフランス軍将校達からフランスの都市計画事情を学んでいる。1942年には脱走を試みるが失敗している。 終戦後に解放されてからは、1946年からフランスに渡り、パリ市の都市計画家検定試験に合格。帰国して1952年、ベルギー運輸省発足時アドバイザー兼ベルギー公共事業省の緑地顧問特別職に就任。 1956年から1958年、IFLA(国際造園家連盟)会長に就任。 1958年、ブリュッセル万国博覧会 (1958年)ベルギー政府統括部の造園担当に。 1962年からはフランス・フォンテーヌブローアメリカ芸術学校とヴェルサイユのフランス国立造園高等専門学校ENSP(エコール・デ・ペイサージュ)また、ルーヴァン大学ヘヴェルリー建築都市遺産修復センター講師に就任。 1971年、ICOMOS=IFLA国際学術委員会委員長就任。 1973年、ユネスコ特認大使就任。 1987年、『庭園の基本法則』(Grammaire des Jardins)第1版)を出版。 1993年、ルネ・ペシェール図書館(BRP)開館。都市計画や歴史的な庭園といったさまざまな主題に関連する貴重資料ぼ収集にもつとめ、骨董と現代的な貴重本のコレクションにも手を染め、都市計画、建築とランドスケープのための国際センターとしてブリュッセルに拠点をおいている。1988年以降はブリュッセル首都地域に関する関連資料の管理を委託され、これらはまたフルデジタル化でアーカイブされている。 1995年、『庭園の基本法則』(第2版)出版。 2002年、フランス・マルセイユで死去 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルネ・ペシェール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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