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ルワンダ虐殺における初期の出来事 : ウィキペディア日本語版
ルワンダ虐殺における初期の出来事[るわんだぎゃくさつにおけるしょきのできごと]

ルワンダ虐殺における初期の出来事では、1994年4月6日に発生したルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナブルンジ大統領シプリアン・ンタリャミラ同時暗殺事件から、続く数日のうちにルワンダ虐殺が勃発するまでの間に発生した出来事を記述する。両大統領の暗殺はルワンダ虐殺を触発した引鉄であり、結果として凡そ80万人と推計されるツチと穏健派のフツが殺害された。その暗殺事件直後の数日間のうちに様々な鍵となる出来事が発生し、後続した虐殺事件の道筋が決定付けられた。これには次のようなものが含まれた:
*強硬なアカズ派が牛耳る暫定政府による実権掌握
*反対勢力を成すフツ系政治家たちの粛清
*ルワンダ全土を舞台とした虐殺計画の発動
*国連平和維持要員の殺害。これは国際社会が一時的に介入を躊躇する原因となった。
== 危機管理委員会の会合(6日) ==
:''暗殺とその直後の詳細は、別記事ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件を参照。''
1994年4月6日午後8時20分(UTC午後6時20分)頃、ルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナをはじめルワンダ軍(FAR)(当時。現ルワンダ国防軍)参謀総長デオグラティアス・ンサビマナ他の有力者を乗せた旅客機がキガリ国際空港に着陸しようとするところを撃墜された。国防相オーギュスタン・ビジマナは陸軍情報部長のアロイス・ンティウィラガボを伴ってカメルーンで会合に出席中だった。墜落から凡そ1時間半から2時間後、キガリの軍司令部に居合わせた将校は後任の参謀総長を選ばねばならないことに気付き、重苦しい雰囲気で会議を開いた。まもなく国防省の官房長テオネスト・バゴソラ大佐が現れ、その会合の議長を務めるのは彼の責務だと述べた。バゴソラは軍人としての評価は低かったが、政府与党であるMRDNとの政治的コネによってその地位に就いていた。ある大佐は国家警察長官のオーギュスタン・ンディンディリイマナ(en)少将の方がふさわしいと提案したが、ンディンディリイマナは辞退し、一部の将校を驚愕させた〔Melvern (2004), p.137〕。
多くの者は権力の空白状態が生じることを危惧していた。アガート・ウィリンジイマナ首相は大統領職務の代行順位として法律上筆頭にあったが、殆どの将校は彼女に統治能力は無いと信じており、バゴソラは彼らが彼女の指導下に入るという選択肢を却下した。アルーシャ協定に従って行動すべきかも議論されたが、その場合は叛徒であるルワンダ愛国戦線(RPF)と今後について協議する必要があった。バゴソラは軍が政権を握るべきだと提案したが、賛同したのは国防省財務局長のシプリアン・カユンバ中佐ただ一人だった。殆どの将校はこれがクーデターに見えてしまうことは避けたいと必死だった。やがて誰かが、協定は依然として有効であり国連も国内に健在だと指摘した。将校たちは、国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)に接触してUNAMIRの軍事司令官であるロメオ・ダレール将軍をこの会合に招き、クーデターが進行している訳では無いことを示そうということで合意した〔Melvern (2004), pp. 137-138〕。尤も、フィリップ・ゴーレイヴィッチはこのときの状況を「フツ至上主義党のクーデター」だと述べている〔ゴーレイヴィッチ、p.140〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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