|
ルーキー 新一(ルーキーしんいち、1935年11月27日 - 1980年3月4日)は、香川県出身のお笑い芸人、脚本家、演出家。本名:直井新一。レツゴー正児の実兄。当時では珍しく、師匠に師事していない。 == 来歴・人物 == 珠算塾を自営していたが、弟のレツゴー正児と組んで『漫才教室』(ABCラジオ)で勝ち抜いたのを期に1957年(昭和32年)頃プロに転向し、黒崎清二との漫才コンビ『梅乃松夫・武夫』で松竹芸能からデビュー。 1961年(昭和36年)に吉本興業に引き抜かれ『ルーキー新一・清二』と改名。1963年(昭和39年)頃からピンで『てなもんや三度笠』(ABCテレビ)や『スチャラカ社員』(同)、『ごろんぼ波止場』(同)などに出演し、頭角を現した。 ライバル・秋山たか志との次期座長レースに競り勝ち、1965年(昭和40年)1月から吉本新喜劇の座長に抜擢(吉本興業編纂の文献によれば「座長格」)。白木みのる、桑原和男、財津一郎、平参平らに伍して、両手で乳首をつかんで、腰を左右に振りながら「イヤーン、イヤーン」や「これはエライことですよ!」、「あなた知らないのホホホン」(これはのちに坂田利夫が流用するようになる)などのギャグを流行させた。特に相方の白羽大介と、ボケて泣いて観客を芝居に引きずり込む演技力は他の追随を許さず、コメディに必要な間・息・勘などの要素すべてに完璧な天才振りを示した。『吉本新喜劇名場面集』(1989年〈平成元年〉)では、「イヤーン、イヤーン」を知らない人は吉本新喜劇を語るべからず、とまでされている。 しかし吉本興業に対し、座長としての責任感から団体交渉のリーダーに祭り上げられた結果、会社と芸人の板挟みになり、座長就任から僅か9ヶ月後の同年10月、渡淳(後のレツゴーじゅん)らを引き連れて集団退社し、自前の芸能事務所コメディプロを設立。白羽、森信とのトリオを中心に、千日劇場でルーキー爆笑劇団を旗揚げしたものの、劇場自体の退潮期に重なり、人気にも陰りが見え始める。 更に1968年(昭和43年)、巡業先で女性劇団員の入浴を覗いた一般男性に暴行、恐喝した容疑で白羽、渡と共に逮捕、ルーキーと白羽が執行猶予付きの有罪判決を受け、また1969年(昭和44年)にはホームグラウンドの千日劇場も閉鎖されるなど、順風満帆だった芸能生活が暗転した。 後にレツゴーじゅんの定番になった「ルーキーに貸した金返せ」は、正司敏江・玲児の「誰のお陰で正司を名乗れると思うとるんや」「養育費」と同様、洒落になるかならぬか、ぎりぎりの実話ギャグであり、正児も兄が重ねた不始末のため、未だに肩身の狭い思いをしているという(下記の『レツゴー正児のコラム』を参照。漫才協会に対しての『今は亡き兄のルーキー新一がご迷惑をおかけしているにもかかわらず、私に温かい手を差し伸べてくださって感謝感激です』など)。 劇団の解散後は、東映の『極道シリーズ』に出演したり、北一郎(後のチグハグコンビの石坂てつ也)やルーキー一夫(後のヤングロング・ホープのホープ)、1969年(昭和44年)には弟子のルーキー伸二(後のうすい圭)、ミッキー修(後の梅乃ハッパ)らと漫才コンビを組んだり、シングルレコード『木屋町ブルース』(テイチク、1973年〈昭和48年〉)を吹き込むなど様々な展開を試みたものの、吉本の圧力で仕事を干され、また周辺にスキャンダルの噂が絶えず、どれも第一線への再浮上の契機となるまでには至らなかった。 再々起を図って1975年(昭和50年)に関東転出。翌1976年(昭和51年)には浅草松竹演芸場で芸能生活15周年記念公演を行い、一座を率いて地方を回ったが、引き続き仕事を干された上に酒浸りになり、1980年(昭和55年)3月4日に、大阪府守口市の自宅で衰弱死しているところを発見された。享年44。レツゴー正児はこの死について「金が無く餓死した」と語っているが、下記のコラムのNo.125では死因を肝硬変としている。没後「悲運のコメディアン」との再評価が高まったが、追悼特番などは特に放送されなかった。 出演した舞台などの映像はビデオやDVD化されていないものの、日本映画『日本一のゴリガン男』〔主演の植木等との掛け合いとなっている登場シーンで、ルーキーは当時の持ちギャグをほぼ全て披露しており、その様子は同作の予告編の中でも比較的長く紹介されている。〕や『スチャラカ社員』、『ワタリ』、『妖怪百物語』などの出演作品で、その芸風を偲ぶことができる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルーキー新一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|