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ルーク・ブラックバーン : ウィキペディア日本語版
ルーク・ブラックバーン

ルーク・プライア・ブラックバーン(、1816年6月16日 - 1887年9月14日)は、19世紀アメリカ合衆国ケンタッキー州出身の医師慈善事業家政治家である。第28代ケンタッキー州知事に選ばれ、1879年から1883年まで務めた。2003年にアーニー・フレッチャーがケンタッキー州知事に選ばれるまで、ケンタッキー州で唯一知事を務めた医師だった。トランシルベニア大学で医学の学位を得た後、ミシシッピ州ナチェズに移転し、1848年にミシシッピ川バレーで黄熱病に対する最初の検疫を行って成功したことで、国民的名声を得た。黄熱病の専門家と見なされるようになり、その流行に対して戦うために「無料」で働くことも多かった。その慈善活動の中には、自己資金を使ってミシシッピ川で働く水夫のための病院を建設したこともあった。後にアメリカ合衆国議会に働きかけて、ミシシッピ川沿いに一連の同様な病院を建設することに成功した。
ブラックバーンは南北戦争の時に、戦うには年を取りすぎていたが、南軍側を支持した。戦争初期にケンタッキー州とミシシッピ州政府のための市民工作員として働いた。1863年までに、カナダで南軍の封鎖破りを援助していた。1864年、バミューダに旅して、そこの南軍による封鎖破り操作を脅かしていた黄熱病の流行と戦うことに貢献した。終戦後間もなく、南軍の二重スパイが、アメリカ合衆国北部で黄熱病を流行させ、北軍の戦争遂行を妨げる計略を遂行したとブラックバーンを告発した。ブラックバーンは、黄熱病患者が使った下着や衣類を集めて、北部州に密輸させ販売させたという告発だった。ブラックバーンに不利な証拠はかなりのものだったが、その多くは状況証拠であるか、評判に問題のある証人の証言だった。ブラックバーンはトロントの裁判所で無罪を宣告されたが、アメリカ合衆国の全土を通じてブラックバーンに対する大衆の感情が圧倒的に悪かった。今日の歴史家達は、ブラックバーンが実行したとされる計略でその役割を裏付ける証拠の強さについては、意見が一致していない。いずれにしてもこのような性格の計略は失敗する運命にあった。1900年、ウォルター・リードが、黄熱病は接触感染ではなく、蚊が媒介して広まることを発見した。
ブラックバーンはアメリカ合衆国当局から起訴されることを避けるためにカナダに留まっていたが、1868年にメキシコ湾岸のテキサス州ルイジアナ州での黄熱病流行と戦うのを支援するために母国に戻った。ブラックバーンに対する告発が取り下げられることはなかったが、逮捕も起訴もされなかった。1873年にはテネシー州メンフィスで、1877年にはフロリダ州フェルナンディナで、1878年にはケンタッキー州ヒックマンで、黄熱病の流行と戦うことで、大衆の抱くイメージを修復していった。ブラックバーンは「ヒックマンの英雄」と呼ばれ、翌年には民主党の州知事候補に推されることになった。州知事選挙では共和党の対抗馬ウォルター・エバンスを大差で破って当選した。知事としてのブラックバーンは、州の財政や内国改良の分野で幾つかの改革法案を通したが、刑法改革の分野での功績が大きかった。フランクフォートにある刑務所の状態には問題が多く、知事の権限である恩赦を使って刑務所の混雑を緩和させるなど、「情け深いルーク」など冷笑的な渾名を得ることになった。エディビルに新しい州立刑務所の建設を確保し、古い刑務所の腐敗した民間業者の管理に代わって新しい監視人体系を採用し、州では初の仮釈放システムを実行させた。歴史家達はブラックバーンの改革の記録から「ケンタッキー州における刑務所改革の父」と称えることもあるが、自由な恩赦の記録や、囚人の生活条件を改善するために稀少な税金を遣ったことは、当時不人気だった。1883年の党の指名大会ではブーイングを受け、やじり倒された。知事としての任期が明けると、医業に戻り、1887年に死んだ。レキシントンにある軽警備の懲罰施設であるブラックバーン矯正施設は、1972年にブラックバーンの栄誉を称えて名付けられた。
== 初期の経歴と家族 ==
ルーク・プライア・ブラックバーンは1816年6月16日に、ケンタッキー州ウッドフォード郡で生まれた〔"Kentucky Governor Luke Pryor Blackburn". National Governors Association〕。父はエドワード・M・ブラックバーン、母はラビニア(旧姓ベル)であり、その13人の子供の4番目だった〔Baird in ''Luke Pryor Blackburn'', p. 2〕。ブラックバーンの大叔父ギデオン・ブラックバーンは、著名な長老派教会牧師であり、ダンビルにあるセンター・カレッジの学長を務めた〔。ブラックバーンの親戚の多くが政治に関わっていた〔。母方の祖父は1799年ケンタッキー州憲法制定会議の代議員であり、叔父のウィリアム・ブラックバーンは州知事ジェイムズ・T・モアヘッドの時代にケンタッキー州上院議長代行と副知事代行を務めていた〔。著名政治家ヘンリー・クレイは遠い親戚であり、ブラックバーン家を訪ねることもあった〔。
ブラックバーンは地元公立学校で初期の教育を受けた〔。16歳のときに叔父で医師のチャーチル・ブラックバーンの下で医療の修業を始めた〔。その修行中にレキシントンやパリスで流行したコレラの患者を治療することで叔父を助けた〔Baird in ''Luke Pryor Blackburn'', pp. 3–5〕。その後レキシントンのトランシルベニア大学に入学し、1835年3月に医学の学位を得た〔Baird in ''Kentucky's Governors'', p. 111〕。卒業後はレキシントンで医療を開始し、近くのバーセイルズで流行ったコレラと戦う推進役になった〔Perrin, Battle, and Kniffin〕。この疫病の間、治療に対する報酬を受け取らなかった〔。
1835年11月24日、遠戚にあたるエラ・ギスト・ボスウェルと結婚した〔Baird in ''Luke Pryor Blackburn'', p. 7〕。妻の父ジョセフ・ボスウェル博士は1年前のレキシントンで流行ったコレラで死んでいた〔Powell, p. 64〕。この夫婦には息子のキャリー・ベル・ブラックバーン1人が1837年に生まれた〔。キャリーが生まれる直前に、ブラクバーンは麻縄と袋の製造業に大きな投資をしており、この事業が失敗したときにかなりの財産を失っていた〔。1843年、ブラックバーンはホイッグ党からケンタッキー州議会下院議員に選出され、1期を務めたが、特に業績は残さなかった〔Harrison, p. 84〕。再選は求めず、1844年に弟と共にフランクフォートで委員を開業した〔。
1847年、ミシシッピ州ナチェズが経済的に繁栄していたのでそこに移転した〔。直ぐに地域社会の活動的な一員となり、禁酒協会の設立に貢献し、民兵隊に加わり、地元病院の管理者になった〔Baird in ''Luke Pryor Blackburn'', p. 8〕。ジェファーソン・デイヴィスやウィリアム・ジョンソンと親密な仲になった〔。1848年、市の健康管理官となり、ミシシッピ川バレーで黄熱病が流行した時には最初の検疫を行って成功した〔。ブラックバーンは私費を遣ってミシシッピ川で働く水夫のための病院を設立した〔。アメリカ合衆国議会に働きかけて、ミナチェズに病院を建設することに成功した。1852年に完成したときに病院の外科医に指名された〔。1854年、黄熱病に対して再度検疫を行い成功させた〔。ミシシッピ州議会がブラックバーンに、ルイジアナ州議会に働きかけて、ミシシッピ川沿いの都市を守るためにニューオーリンズで検疫所を設けるよう依頼してきた。ルイジアナ州政府はブラックバーンがそのような仕組みを構築することを承認した〔。
1854年9月、ブラックバーンと息子のキャリーはペンシルベニア州フィラデルフィアに旅し、著名な医者のサミュエル・D・グロスの下でキャリーが修業できるようにした〔Baird in ''Luke Pryor Blackburn'', p. 17〕。フィラデルフィアに居る間にニューヨーク市ロングアイランドに近いワシントン砦で黄熱病が流行した〔。ニューヨーク市長がブラックバーンに患者治療の援助を求めた。ブラックバーンはその要請を受け入れ、その奉仕に対する報酬は拒んだ〔。1856年11月にナチェズに戻ると、妻のエラが浮腫を患って神経質な状態にあり、熱が出ていた〔Baird in ''Luke Pryor Blackburn'', p. 18〕。ブラックバーンは妻を救おうと努力したが、その病状は悪化し、その月末前に死んだ〔。ブラックバーンは悲しみに打ちひしがれていたので、友人がその気持ちを癒すために以前にも話していたようにヨーロッパを旅してくることを勧めた〔。ブラックバーンは1857年初期に行動に移り、イングランドスコットランドフランスドイツの病院を訪れた〔。パリに滞在しているときに、同じケンタッキー州出身のジュリア・M・チャーチルと出会った。ジュリアは姉妹や姪と共に旅していた〔。ブラックバーンとジュリアは旅程を途中で打ち切り、故郷に帰って、1857年11月に結婚した〔。ハネムーンの後、1858年1月にニューオーリンズで新居を構え、医業を再開した〔。ブラックバーンが書いた短い詩によると、夫妻にはアビーという娘が生まれたが、幼児の時に死亡しており、誕生日も死亡日も不明のままである〔Baird in ''Luke Pryor Blackburn'', p. 19〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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