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ピーテル・パウル・ルーベンス〔「ルーベンス」はドイツ語読みで、オランダ語では「リュベンス」と発音する。〕( 、1577年6月28日 - 1640年5月30日)は、バロック期のフランドルの画家、外交官。祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残した。日本語ではペーテル・パウル・リュベンス、ピーテル・パウル・リュベンスなどと表記する場合もある。 ルーベンスはアントウェルペンで大規模な工房を経営し、生み出された作品はヨーロッパ中の貴族階級や収集家間でも高く評価されていた。またルーベンスは画家としてだけではなく、古典的知識を持つ人文主義学者、美術品収集家でもあり、さらに七ヶ国語を話し、外交官としても活躍してスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からナイト爵位を受けている。 欧州大学院大学の奨励金制度には、毎年著名な歴史上の人物の名前がつけられており、1976年から1977年の奨励金制度はピーテル・パウル・ルーベンスと名付けられた。 == 生涯 == === 幼少期から青年期 === ルーベンスは、ヤン・ルーベンスと妻マリアとの間に、ドイツのジーゲンで生まれた。父ヤンはプロテスタントのカルヴァン主義者の法律家で、1568年にマリアとともにスペイン領ネーデルラント総督アルバ公フェルナンドのプロテスタント迫害のために、アントウェルペンからケルンへと逃れてきた夫婦だった。ヤンはオランダ総督オラニエ公ウィレム1世の二度目の妃アンナの法律顧問さらには愛人となり、1570年にジーゲンのアンナの宮廷へと居を移している。アンナの愛人であることが発覚して投獄されていたヤンだったが後に釈放され、1577年にマリアとの間にルーベンスが生まれた。その後1578年にヤン一家はケルンへと戻ったが、1587年にヤンは死去している。父親の死後、一家は故郷のアントウェルペンへ戻った。アントウェルペンでカトリック教徒として成長したルーベンスの作品からはその宗教的影響を確認することが出来る。後年のルーベンスはカトリックの改革運動である対抗宗教改革の影響を受けた絵画様式の主導者となっている。 ルーベンスはアントウェルペンで人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学んだ。1590年、生活に困窮していたマリアは、13歳のルーベンスをフィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュの下へ小姓に出した。ここで芸術的素養を見込まれたルーベンスはアントウェルペンの画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められ、見習いとしてアントウェルペン生まれの芸術家トビアス・フェルハーフト (:en:Tobias Verhaeght) に弟子入りし、その後引き続いて当時のアントウェルペンの主要な画家だったアダム・ファン・ノールトとオットー・ファン・フェーン (:en:Otto van Veen) に師事した。ルーベンスの芸術家としての最初期の修行は、先人たちの作品の模倣、模写だった。手本となったのは、ルネサンス期のドイツ人芸術家ハンス・ホルバインの木版画、ルネサンス期のイタリア人画家ラファエロの作品を原画としたイタリア人版画家マルカントニオ・ライモンディの銅版画などである。ルーベンスは1598年に修業を終え、一人前の芸術家として芸術家ギルドの聖ルカ組合の一員となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピーテル・パウル・ルーベンス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Peter Paul Rubens 」があります。 スポンサード リンク
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