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ルー・バイアーバウアー(Louis W. "Lou" Bierbauer, 1865年9月23日 - 1926年1月31日)は、1880~1890年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手。主なポジションは二塁手。ペンシルベニア州エリー生まれ。右投げ左打ち。二塁手として当時高い評価のあった選手で、1891年にピッツバーグ・アレゲニーズが彼をこっそり引き抜いたことで非難され、チーム名を「パイレーツ」に変えたというエピソードが有名である。 ==略歴== 1886年、20歳の時にアメリカン・アソシエーションのフィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス及び、1860年~1876年に存在した同名球団とは無関係)に入団し、その守備力を買われレギュラーの二塁手となった。1年目は二塁手として133試合に出場し、刺殺数380、400を超える補殺数を記録した。3年目の1888年には補殺数がリーグ最多、翌1889年には472もの刺殺を記録した。打撃面では1年目こそ振るわなかったが、4年目には打率.304、100打点以上を挙げる活躍をした。 1890年にプレイヤーズ・リーグが創設された際、モンテ・ウォードが率いるブルックリン・ワンダーズに参加する。この年はキャリア最高となる128得点、180安打を記録し、リーグ最多の併殺を取るなど攻守に活躍を見せ、チームはリーグ2位の成績を収める。 プレイヤーズ・リーグが1年で消滅した後、1891年にバイアーバウアーが契約したのはナショナルリーグに所属していたピッツバーグ・アレゲニーズだった。しかし以前所属していたアスレチックスは、プレイヤーズ・リーグ破綻の後、バイアーバウアーがチームに戻ってくると考えており、この移籍を「盗人行為だ」と非難した。当時アメリカン・アソシエーションとナショナルリーグの間には、『両リーグ間で選手の引き抜きをしない』という協定が結ばれていたのだが、アレゲニーズはバイアーバウアーの移籍を、解散したブルックリンとの間の移籍として処理をしていたようである。〔プレイヤーズ・リーグを介した同様の引き抜きとして連邦管理委員会に訴えられたケースは、バイアーバウアーの他に、ボストン・ビーンイーターズ(現ブレーブス)が同じアスレチックスの強打者だったハリー・ストーヴィーを移籍させたケースと、同じく1891年にパイレーツに移籍したコニー・マックのケースの計3件である。〕同年2月14日の連邦管理委員会の裁定によりこの移籍は認められることになったが、スター選手を失ったアスレチックスは1891年のシーズンを迎えることなく破綻してしまい、また非難され開き直ったピッツバーグのオーナーは、これをきっかけにチーム名を「アレゲニーズ」から「パイレーツ」に変更したと言われている。 パイレーツに籍を置いたバイアーバウアーは、1892年には555もの補殺を記録するなど、移籍後も二塁手としての高い守備力を見せていた。その後1896年オフにパイレーツからセントルイス・ブラウンズに移籍し、1898年を最後にメジャーリーグから引退した。1926年に故郷ペンシルベニア州にて死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルー・バイアーバウアー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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