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レイフ・ギャレット : ウィキペディア日本語版
レイフ・ギャレット

レイフ・ギャレットLeif Per Nervik, 1961年11月8日 - )は、アメリカ合衆国俳優歌手1970年代後半から1980年代初頭にかけて世界的にアイドルとして人気を博した。
== 来歴 ==
1961年スタントマン俳優カメラ・オペレーターでもあるリック・ネルヴィークと女優衣裳デザイナーのキャロリン・ステラーの間に生まれる。
幼い頃から妹のドーン・リン(1963年~)とともに子役として活動し始めた。主人公の息子役で出演した『ウォーキング・トール』(1973年)で注目されるが、アイドルとなるきっかけは1975年CBSのテレビドラマシリーズ「Three for the Road」で主人公の息子役を演じたことで、視聴率の低い番組ではあったものの、少女たちからギャレット宛にファンレターが殺到。この人気に音楽業界が注目し、男性アイドル歌手として当時人気絶頂だったショーン・キャシディのプロデューサーだったマイケル・ロイドと契約し〔Bio IMDB.com〕、アトランティック・レコードからレコード・デビューした〔Leif Garrett's Teen Steam TV's 25 Greatest Teen Idols, TV Guide magazine, Jan 27, 2005〕。
3枚目のシングル「''Surfin' U.S.A. ''」がBillboard Hot 100で20位、オーストラリアで2位、西ドイツで6位、スイスで4位〔Leif Garrett - Surfin' USA .swisscharts.com〕のヒットとなったことを皮切りにコンスタントにBillboard Hot 100入りを果たすようになった。西ドイツでは芸能雑誌が1978年に一番活躍した歌手に贈る賞の金賞を受賞〔Bravo awards 1978 1980年まで3年連続で受賞〕。1978年11月発売の「''I Was Made for Dancin’''」(邦題:『ダンスに夢中』)はBillboard Hot 100で10位、オーストラリアで2位、イギリスで4位、日本のオリコンでは総合チャートで最高位12位などを記録した。日本ではギャレットが出演したナビスコ・アイダホポテトスティックのCMに使用されたことから大ヒットし、1979年のオリコン年間チャートで31位、35万7千枚の売り上げを記録した。オリコン洋楽シングルチャートでは1979年4月2日付から通算14週1位を獲得し、1979年の年間チャート1位となった〔コンピレーション・アルバム『ナンバーワン70s ORICON ヒッツ』の裏ジャケットナンバーワン 70s 80s 90s オリコン・ヒッツ も参照。〕。同時期に発売したアルバム「''Feel The Need''」に収録された「''NEW YORK CITY NIGHTS''」は後に田原俊彦によってデビュー曲「哀愁でいと」としてカバーされた。
1979年4月3日には自身の冠ショー''Leif''がCBSで放映され、ブルック・シールズやマイケル・ロイド・プロデュースでアメリカ進出を遂げたばかりのピンク・レディーがゲスト出演した〔ピンク・レディーの軌跡・1979年 〕。その模様は日本テレビNTVザ・ヒット! ピンク百発百中で放送された。しかし世界的な人気アイドルとして人気絶頂の1979年11月3日に麻薬吸引と飲酒が原因で起こした交通事故〔Former teen idol Leif Garrett arrested on charge of possession of heroin ロサンゼルス・タイムズ、February 3, 2010〕がきっかけで人気は下降し始め、本人があからさまにティーン・アイドルのイメージを嫌い始めて〔Leif Garrett to Justin Bieber: 'Don't believe your own publicity' Fox news, August 19, 2013〕フィアンセのニコレット・シェリダンとのセミヌード写真を公開したことなども相まって〔See Something Say Something Paper Monument〕、都倉俊一とジョー・ダンドレアによるプロデュースの1981年のアルバム「''My Movie Of You''」を最後にアトランティック・レコードからのレコードのリリースはなくなり、俳優業に戻ったが、『アウトサイダー』、『The Spirit of '76』(日本未公開)以外では役に恵まれなかった。
また、ヘロイン中毒に苦しみ、1990年代には映画、テレビドラマに出演する機会が少なくなった。1990年代後半以降は1970年代を回顧する番組への出演や司会、過去に人気があった有名人が出演するリアリティ番組に出演しながらも、徐々に音楽活動に復帰しており、2000年にはオルタナティブ・ロックバンドのメルヴィンズのアルバム''The Crybaby''の中でニルヴァーナの''Smells Like Teen Spirit''のカバーでゲスト・ヴォーカルを務めている。
また、クリスチャン・ロックや1960~1970年代のアイドルを集めたフェスティバルといったようなライブ出演やアルバム制作を行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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