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レイモンド・チャンドラー : ウィキペディア日本語版
レイモンド・チャンドラー

レイモンド・ソーントン・チャンドラーRaymond Thornton Chandler, 1888年7月23日 - 1959年3月26日)は、アメリカ合衆国シカゴ生まれの、小説家で脚本家。
1932年、44歳のとき大恐慌の影響で石油会社での職を失い、推理小説を書き始めた。最初の短編「」は1933年「ブラック・マスク」という有名なパルプ・マガジンに掲載された。処女長編は1939年の『大いなる眠り』である。長編小説は7作品だけで(8作目は後にロバート・B・パーカーが完結させた)、他は中、短編であるが、チャンドラーの長編はほとんど先に書いた中篇が元になっている。『プレイバック』以外の長編はいずれも映画化されている。死の直前にアメリカ探偵作家クラブ会長に選ばれた。1959年3月26日、カリフォルニア州ラホヤで死去〔Chandler, Raymond (1950). ''Trouble is My Business'', Vintage Books a division of Random House, Inc., 1988 pp. "About the Author"〕。
チャンドラーの文体はアメリカ大衆文学に大きな影響を及ぼし、ダシール・ハメットジェームズ・M・ケインといった他の「ブラック・マスク」誌の作家と共にハードボイルド探偵小説を生み出したとされている。彼が生み出した主人公フィリップ・マーロウはハメットのサム・スペードと共にハードボイルド系「私立探偵」の代名詞とされている。ハンフリー・ボガートが映画で両者とも演じているが、チャンドラー自身はマーロウに一番近い俳優としてケーリー・グラントをあげている。
チャンドラーの長編小説の一部は文学作品として重要とされており、特に『大いなる眠り』(1939)『さらば愛しき女よ』(1940)、『長いお別れ』(1953) の3作品は傑作とされることが多い。あるアメリカ犯罪小説のアンソロジーでは『長いお別れ』について「主流文学の中にミステリーの要素を取り入れた作品。ただし、その1番目は20年以上前に出版されたハメットの『ガラスの鍵』である」と評している〔Pronzini, Bill and Adrian, Jack (editors)(1995). ''Hard-Boiled, An Anthology of American Crime Stories'', Oxford University Press, Inc., 1995, p.169.〕。
== 生い立ち ==
1888年、イリノイ州シカゴで生まれたが、幼少期は両親と(母方の)叔母と叔父といとこと共にネブラスカ州プラッツマスで過ごした。父はアルコール中毒の土木技師で鉄道建設に従事していたが、1895年に家族を捨てて去った。1900年、母はチャンドラーに最高の教育を受けさせるためイギリスのロンドンに引っ越した〔1900 US Census, Plattsmouth, Nebraska〕。そこで母方の祖母のもとに身を寄せ、アイルランドのウォーターフォードで弁護士として成功していたクエーカーの叔父の支援を受けた〔 - 有償であり、無料で閲覧できる抄録部分には出典となる情報はない。〕。P・G・ウッドハウス〔やセシル・スコット・フォレスターといった出身者のいるパブリックスクールダリッジ・カレッジで古典教育を受ける。夏休みにはウォーターフォードで母方の親族と共に過ごした。大学には進学せずにパリミュンヘンで過ごし、語学力を磨いた。1907年、公務員試験を受けるためイギリスに帰化し、試験に合格してイギリス海軍本部で職を得て、そこで1年ほど働いた。最初の詩をこのころ出版している〔〕。なお、アメリカの市民権を得たのは1956年のことである〔。
公務員が性に合わず間もなく退職して家族を驚かせたが、デイリー・エクスプレスブリストルWestern Gazette といった新聞の記者となった。しかしジャーナリストとしては成功せず、フリーライターとして文芸雑誌に書評を書き、ロマン主義の詩を書き続けている。チャンドラーは後にこのころについて幸福ではなかったと述べている〔Raymond Chandler: ''Raymond Chandler Speaking'' (Dorothy Gardiner and Kathrine Sorley Wakker, ed.) p. 24 Houghton Mifflin Company (1962) ISBN 978-0-520-20835-3.〕。
1912年、ウォーターフォードの叔父から金を借り、利子をつけて返すことを約束。安定した職を求めアメリカに向かい、叔母と叔父を訪ねた後サンフランシスコに落ち着き、そこで簿記を学ぶ。同年末には母を呼び寄せた。1913年、ロサンゼルスに向かう〔Florence arrives 12/1912 - Passenger Manifest SS Merion〕。道中テニスラケットの弦を張る仕事や果樹園での収穫の仕事などをして金を貯めた。ロサンゼルスに着くと、The Los Angeles Creamery(ロサンゼルス乳業)に就職。第一次世界大戦が勃発しアメリカが参戦すると、1917年よりカナダ海外派遣軍に入隊し、フランスで戦闘に参加。終戦時には創成期のイギリス空軍で飛行訓練を受けていた〔。
休戦が成立するとカナダ経由でロサンゼルスに戻り、間もなく一緒に入隊したゴードン・パスカルの継母で18歳年上のシシイと恋愛関係となった〔。シシイは1920年に離婚したが、チャンドラーの母はその関係に反対し、結婚を認めなかった。4年間そのような状態が続いたが、1923年9月26日に母が亡くなり、1924年2月6日にはシシイと結婚〔〔Raymond Chandler's Shamus Town 年表のページなどに公式な記録(死亡診断書、国勢調査、電話帳など)が使われている。〕。1922年から Dabney Oil Syndicate という石油会社で簿記係兼監査役として雇われ、1931年には副社長にまで登りつめたが、飲酒が過ぎること、常習的な欠勤、女性従業員との不倫〔などが原因で翌年には解雇された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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