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レイ・メンドーサ(Ray Mendoza、本名:José Díaz Velazquez、1929年7月6日 - 2003年4月16日)は、メキシコのルチャドール(プロレスラー)。 選手時代は主に素顔で活動し、インディオの血を受け継ぐテクニコとして人気を集めた〔『THE WRESTLER BEST 1000』P111(1996年、日本スポーツ出版社)〕。日本でのニックネームは「メキシコの鉄人」。 実子が順にビジャノ1号、2号、3号、5号、4号、義理の娘はラ・インフェルナル(3号の妻)。彼らのユニット名は「ロス・ビジャノス」と呼ばれる。 == 来歴 == 1950年にプロボクサーとしてデビューするが、拳を負傷してボクシングの続行を断念〔。ライ・カラスコのトレーニングを受け、1954年にルチャ・デビュー。当初はボクサー時代と同じチャト・ディアス(''Chato Diaz'')のリングネームで活動し、エル・ラヨ・ロホ(''El Rayo Rojo'')を名乗って覆面レスラーに変身していた時期もある。 1955年よりレイ・メンドーサ(''Ray Mendoza'')のリングネームを用いるようになり、1959年9月11日にジャマイカのドリー・ディクソンからNWA世界ライトヘビー級王座を奪取、メキシコ人選手では初の同王座戴冠を果たした。以降、1967年8月、1968年12月、1970年3月、1972年4月、1973年12月と、通算6回に渡って同王座を獲得している〔。その間、1963年11月30日にエスパント1号を破りメキシカン・ナショナル・ライトヘビー級王座を獲得し、1967年3月11日にはレネ・グアハルドからNWA世界ミドル級王座を奪取した。 アメリカ合衆国のロサンゼルス地区にも遠征し、1970年12月4日にジョン・トロスを破りユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座を獲得。1971年1月15日にはミル・マスカラスと組んでブラック・ゴードマン&エル・ゴリアスからNWAアメリカス・タッグ王座を奪取している。同月にゴードマン&ゴリアスに奪還されマスカラスとの王者チームは短命に終わったものの、その後も1972年5月5日にラウル・マタとのコンビでキラー・コワルスキー&キンジ渋谷、1973年5月18日にはラウル・レイエスをパートナーにゴードン・ネルソン&リッパー・コリンズをそれぞれ下し、アメリカス・タッグ王座に返り咲いた〔。 1975年1月には長らく所属していたEMLLを離れ、フランシスコ・フローレスらとともに新団体ユニバーサル・レスリング・アソシエーション(LLI)を旗揚げ。11月には新設されたUWA世界ライトヘビー級王座の初代王者に認定されている。以降、1976年8月22日にエル・アウダス、1978年10月29日にエル・ソリタリオを破って同タイトルを三度手中にしたが、1979年11月4日にグラン浜田に敗れて陥落してからは、王座に返り咲くことはなかった〔。 1981年9月13日には「ジ・エイプマン」なるアメリカのマーシャル・アーティストとメキシコ史上初の異種格闘技戦を行い、5ラウンドKO勝ちを収めたが、古傷の左肩が悪化したため1983年に引退〔。メキシコの独立記念日である9月16日にメキシコシティのエル・トレオにて引退式が行われた〔。リタイア後はレフェリーやトレーナー、コミッショナー活動などを兼務していた。2003年4月16日、心臓発作のため死去〔。。 日本には1971年3月、日本プロレスに初来日。ザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・カール・コックス、アンジェロ・モスカ、ジョー・ルダックらと共に、『第13回ワールドリーグ戦』に出場した。元UN王者として注目を集めたものの、軽量のためヘビー級揃いのリーグ戦では勝ち星に恵まれず〔、これが最初で最後の来日となっている。1978年8月13日、メキシコにて藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦しているが〔〔『1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P161(1986年、ベースボール・マガジン社)〕、新日本プロレス登場は実現しなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レイ・メンドーサ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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