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ロイ・ヘインズ(Roy Haynes , 1925年3月13日 - )は、アメリカのジャズミュージシャン、ドラマー。アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン生まれ。 1940年代なかばからルイス・ラッセル、レスター・ヤングらと活動したのち、1949年から1953年にビバップの最重要人物、チャーリー・パーカーのグループで活躍した。その後もマイルス・デイヴィスやサラ・ヴォーン、ジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク、エリック・ドルフィー、チック・コリア、パット・メセニーなどの重要レコーディングに参加するなど、90歳を超えた現在でもジャズシーンの先端を行く貴重なミュージシャンである。 ==キャリア== *1925年3月13日にマサチューセッツ州ロックスバリーに生まれた彼は、ジョー・ジョーンズ、ケニー・クラーク、アート・ブレーキー、マックス・ローチといったドラマーに影響を受けて育っている。ティーンの頃からジャム・セッションで腕を磨いていた彼は、高校時代にサビー・ルイス楽団やフランキー・ニュートンのバンドで活動し、19歳でニューヨークに進出した。1945年から47年にかけてはルイス・ラッセル楽団、次いで1947年からの2年間はレスター・ヤング・セクステットで活動している。その後ニューヨークに居を定め本格的なジャズ活動に身を置く。1949年にはカイ・ウインディングのグループに参加して初レコーディングも体験。この年から翌年にかけてはチャーリー・パーカー・クインテットにも在籍した。 *1952年からはエラ・フィッツジェラルドのバックを務め、本格的な歌伴の仕事も行うようになった。しかしあちこちのグループで目まぐるしく活動することに疲れたヘインズは、エラの伴奏という経験を生かし1953年からサラ・ヴォーンの専属伴奏者となる。1954年には彼女のグループで初のヨーロッパ・ツアーを体験、この間にストックホルムとパリにおいて地元のミュージシャンを含むグループで4つのレコーディングを行なう。これらはその後、数種類のオムニバス盤で発表されている。サラのバンドには1958年まで在籍、その後ヘインズは再びニューヨークのジャズ・シーンにカムバックを果たす。 *この年の彼はそれまでにないほど精力的にクラブ・ギグをこなしている。まずはフィニアス・ニューボーン・ジュニアを迎えて自己のトリオ(ベースはポール・チェンバース)を結成したヘインズは、4月「ファイブ・スポット」にレギュラー出演し、それは秋になって毎週月曜の「バードランド」でのギグに継続されていく。そして11月にはこのトリオで初のリーダー・アルバム「ウィ・スリー」(プレスティッジ)を残している。また夏には伝説的なセロニアス・モンク・カルテット(ジョン・コルトレーンが参加)の一員として「ファイブ・スポット」で演奏。その他にもマイルス・デイビスやリー・コニッツのグループに入って積極的に一線への復帰を果たしたのだった。 *その後はコーラス・グループのランバード、ヘンドリックス&ロス、ジョージ・シアリング・クインテット、そしてケニー・バレル・カルテットなどで演奏。「ファイブ・スポット」や「プレリュード」といったニューヨークのジャズ・クラブを中心に活躍したバレル・カルテットは、1960年の初頭にリーダーがブロードウェイ・ミュージカル「バイ・バイ・バーディー」のピット・バンドに参加することで解散してしまう。その結果残り3人がヘインズ・トリオ(リチャード・ワイアンズとポール・チェンバースがメンバー)としてそのまま活動することになったのである。そして吹き込まれたのが彼の代表作「ジャスト・アス」(プレスティッジ)だった。 *1960年代に入ってからはジョン・コルトレーン、ローランド・カーク、エリック・ドルフィー、ブッカー・アーヴィンなど進歩派とも好んで共演し、また折から注目を集め始めていたフリー・ジャズにも積極的に関わっていく。そんな姿勢にも常に新しいジャズにチャレンジするヘインズの面目跳如たるものが感じられる。カークとの共演は1962年にレコーディングされた「アウト・オブ・ジ・アフタヌーン」(インパルス)で聴くことができる。その後も彼は時代の先端を行くミュージシャンとの共演を重ね、そんな中から1967年にチック・コリアと録音した「ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス」(ソリッドステート/ブルーノート)が生まれている。 *このトリオは当初レコーディングのためだけのものだったが、25年後の1982年に再結成し、このときはワールド・ツアーも敢行された。チックとのコラボレーションは「バド・パウエル・トリビュート・バンド」で復活した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロイ・ヘインズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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