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ロジャー・ゼラズニイ(Roger Joseph Christopher Zelazny, 1937年5月13日 - 1995年6月14日)はアメリカ合衆国の小説家、SF作家、ファンタジー作家。ゼラズニイ(早川書房、東京創元社、サンリオ)の表記はセラズニイ(サンリオ)、セラズニィ(角川書店)、ゼラズニーとも。ネビュラ賞を3度、ヒューゴー賞を6度受賞し、長編では『わが名はコンラッド』(1965) と『光の王』(1967) で受賞している。 神話をモチーフにした華麗なスタイルとアクションが人気を呼ぶ。1960年代に、サミュエル・R・ディレイニー、ハーラン・エリスンらとともにアメリカン・ニュー・ウェーブとも呼ばれた。 1970年代以降は、ファンタジーとSFを融合させた作品を多く書いた。 また、ジョージ・R・R・マーティンらと共に、多数の作家が競作形式で小説を書くシェアード・ワールドSF小説「ワイルド・カード」にも参加した。 貝虫亜綱の ''Sclerocypris zelaznyi'' は彼に因んで命名された。 == 生涯 == ポーランド移民の父とアイルランド系アメリカ人の母の1人息子としてオハイオ州ユークリッドに生まれた。高校では校内新聞の編集長を務め、Creative Writing Club にも入会していた。1953年、"Conditional Benefit" という作品がファンジン (Thurban 1 #3) に初めて掲載された。また、1954年には商業誌にファンタジーの短編 "Mr. Fuller's Revolt" が売れている。 1955年、ウェスタン・リザーブ大学に入学し、心理学科を経て1959年英文学科卒業。同年ニューヨークのコロンビア大学に学士入学。1962年、エリザベス朝およびジェームズ朝演劇で比較英文学修士号取得。 1962年から1969年までクリーブランドの社会保障局(社会保険局オハイオ支局)に勤め(後にボルチモアに転勤)、帰宅してからSFを書くという生活を開始した。1962年に短編「受難劇」(''Passion Play'')が「アメージング・ストーリーズ」誌に、「騎士が来た!」(''Horseman!'')が「ファンタスティック」誌に掲載されて作家デビュー。翌1963年にF&SF誌に発表した「伝道の書に捧げる薔薇」がヒューゴー賞候補となって脚光を浴びる。ショートショートから徐々に長い作品を書くようになっていき、1965年に長編を書くようになった。1966年、最初の長編「わが名はコンラッド」(''This Immortal'')を出版。1969年5月1日に仕事を辞め、専業作家となった。このころの彼は Baltimore Science Fiction Society の主要な会員であり、ほかにジョー・ホールドマンらも会員だった。 ゼラズニイは2回結婚している。1回目は1964年、2回目は1966年で、1961年ごろにもフォーク歌手と婚約していて破局したこともある〔"...And Call Me Roger": The Literary Life of Roger Zelazny, Part 1, by Christopher S. Kovacs. In: ''The Collected Stories of Roger Zelazny, Volume 1: Threshold'', NESFA Press, 2009.〕。2度目の結婚では2人の息子と1人の娘をもうけた。ゼラズニイが亡くなるころは別居状態で、ゼラズニイは女流作家 Jane Lindskold と住んでいた。 1960年代に結成された Swordsmen and Sorcerers' Guild of America (SAGA) というヒロイック・ファンタジー作家グループの一員でもあり、このグループの作家の作品はリン・カーターのアンソロジーに収録されている。 両親にカトリック教徒として育てられたが〔、自らを「堕落したカトリック教徒」と称し、その姿勢は死ぬまで変わらなかった〔"...And Call Me Roger": The Literary Life of Roger Zelazny, Part 3, by Christopher S. Kovacs. In: ''The Collected Stories of Roger Zelazny, Volume 3: This Mortal Mountain'', NESFA Press, 2009.〕。
1995年、直腸癌から腎不全を起こし、58歳で死去〔 IMDB Biography 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロジャー・ゼラズニイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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