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ロス・ワイナンス : ウィキペディア日本語版
ロス・ワイナンズ

ロス・ワイナンズ(Ross Winans、1796年 - 1877年)は、アメリカ合衆国の発明家・機械技術者で、機関車や鉄道用機械類の製造を行っていた。また葉巻型の船の設計の始祖としても知られる。アメリカ合衆国で初期の大富豪でもあったワイナンズは政治にもかかわり、州の権限の熱心な支持者であった。メリーランド州議会の議員としての率直な反連邦主義の立場ゆえに、南北戦争初期に逮捕されたこともある。画家のジェームズ・マクニール・ホイッスラーは、その兄弟のジョージがワイナンズの娘であるジュリアと結婚しており、ワイナンズの親戚である。
== 鉄道での業績 ==
ロス・ワイナンズはニュージャージー州で馬の繁殖を仕事としていた家族に生まれた。しかしその後の動力の形態の変化にうまく順応していくことができた。
1828年にワイナンズは、それ以降100年余りに渡って鉄道用の車輪としてのはっきりした形態を確立した、外部軸受つきの摩擦車を開発した。1820年代末にはボルチモア・アンド・オハイオ鉄道と関係ができ、結果的に技術者としてその業務に関わっていった。彼の初期のより重要な業績としては、ピーター・クーパーが「トム・サム」と呼ばれる機関車を開発するのを支援したことがあげられる。1831年には、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道においてワイナンズは機械技師助手に指名された。その年の7月20日に車軸と軸受の製造に関する改良を発明し、特許を取得した。この年は他にも発明があり、「コロンバス」(Columbus) という初めてのボギー台車を装備した車両を製作し、こうした車両を開発した最初の人物ではなかったのであるが、すぐにこの特許を取得した。
ワイナンズは1835年にジョージ・ギリンハム (George Gillingham) と提携し、1834年にフィニース・デイビス (Phineas Davis) およびイスラエル・ガードナー (Israerl Gardner) から借り受けていたマウント・クレアにおけるボルチモア・アンド・オハイオ鉄道向け工場を1836年に引き継ぎ、機関車と鉄道用機械類の製造を続けた。おそらく1836年頃から1841年か1842年まで、ギリンハムとワイナンズの会社、および会社解散後はワイナンズ自身は、鉄道用の車輪を製造していた。
1841年にワイナンズはボルチモア・アンド・オハイオ鉄道のマウント・クレア工場 (Mount Clare Shops) に隣接して自身の工場を開き、同鉄道を主要な顧客とした。彼は石炭炊きの蒸気機関車の開発の初期に関わった。彼は変わっていた人物であったが、機関車製造の事業により裕福になった。彼の顧客との関わりは単純なもので、ワイナンズは自分の思ったとおりに機関車を造り、顧客はそれを買うだけであった。ワイナンズは、機関車や鉄道車両の新しい潮流に付いていくのではなく、むしろ自分で新たな流れを生み出していた。クラブ型 (Crab)・マッドディガーズ型 (Muddiggers)・キャメル型 (Camel) など、彼が生み出した機関車は創始期の東部アメリカの鉄道網全体で1840年代から19世紀終わり頃まで使われた。ワイナンズの機関車の大半は貨物用であった。
1843年にはギリンハムとワイナンズは、利益を最大化するために自分たち自身の工場を建設した。この会社の有名な製品として、キャメルバック式蒸気機関車(あるいはキャメル型)がある。1848年6月以降に納入された機関車はほとんどが、ワイナンズが好んだキャメル型の車軸配置0-8-0のものであった。初期のものはしばしばボルチモア型機関車と呼ばれる。キャメルという名前は、1848年にボルチモア・アンド・オハイオ鉄道に納入されたキャメル型最初の機関車の名前から来ている。すべてのキャメル型機関車が車軸配置0-8-0であった。
1843年から1863年にかけて、およそ267両のワイナンズ製機関車がアメリカの26の鉄道会社に納入されたと記録されている。ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道がワイナンズ製造の機関車の最大の使用者であり、140両が納入されている。ワイナンズ製の機関車の2番目の使用者はフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道であった。これら2社でワイナンズの機関車の売り上げの70%を占めていた。ワイナンズは通常、顧客の路線上で30日間の試用期間を提供していた。その当時ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の機関車部門のトップであったヘンリー・タイソン (Henry Tyson) と、機関車における先台車の使用に関して議論となり、1857年にワイナンズは機関車製造を止めた。ワイナンズは先台車の使用をよいとは考えていなかったのである。このために一部の機関車の納入が1863年まで遅れている。ワイナンズは数多くの特許を取得し〔キャメル型機関車の火室や煙室部などの設計に関する特許はその大半が1857年から1858年にかけて成立している。〕、また彼自身が発明したと主張するアイデアに関する多くの訴訟に関わっている。
ワイナンズはこの事業に退屈し、またボルチモア・アンド・オハイオ鉄道と機関車の設計方針に関して不一致が生じたことから、この工場をたたみ、後に工場をヘイワード・アンド・バートレット (Hayward & Bartlett) に貸し出した。
ワイナンズの機関車設計はロシアの代表団に感銘を与え、ロシアの皇帝から、モスクワ・サンクトペテルブルク鉄道の建設を求められた。ワイナンズは彼の2人の息子と、技術者のジョージ・W・ホイッスラー (George W. Whistler) をロシアへ送り、数年にわたってこのプロジェクトに関与させた。ワイナンズは、アメリカで売った機関車や設備と同じくらいか、あるいはもっと多くの数をロシアへ売った可能性があるとされている。ワイナンズの息子はアメリカに戻り、アレクサンドロフスキーという名前のロシア風の土地をボルチモアに建設した。1925年にこの土地のものは競売に掛けられ、土地はボルチモアのシティ・パークとなっている。ワイナンズが遺した23箱に及ぶ論文や雑誌などはボルチモアのメリーランド歴史協会に保管のために寄贈されている。シティ・パークには大きな屋外鉄道模型クラブのレイアウトがある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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